Wanderer -2-

「パブロフ博士。貴方がロドギエフの管理者という事は、俺の父の事をご存知だという事ですよね?さっき、俺の父は実験体で俺はその結果として生まれたのだと聴きました。それはどういう意味なんですか?プロジェクトというのは、ソ連が命令した事何ですか」
「ウォーズマン君、話しを聴いてどうするつもりだ。真実を聴いて余計辛い気持ちになるかもしれんぞ。知らない方が救われる事もある。それでも私の口から本当の話しが聴きたいかね?」
ウォーズマンは躊躇いもなく静かに頷いた。パブロフは強い決心を知り、自分の知る限りの話しをすると約束した。
「ここは……やり始めたころは……そうだな、今から30年以上も前の話しに遡るが、その頃はまだ小さな建物だった。ヤルツェボは科学アカデミーとはいってもアカデムゴロドクにあるシベリアの未来設計の為のシベリア科学アカデミーや、各分野統括の大研究所で行われる一般的な研究とは違って国家機密に関する研究が専門だった。遺伝子工学、生化学、遺伝学、生理学、物理学、機械工学等それぞれのトップが集ってそれこそ何もないようなところから始めたのだ。そして、そこにシモン・バルゴーエビッチ・ヴォロシーロフは電子工学の博士として22歳にして我々の所へ来た。彼はとても素直で優しい生真面目な青年だった。私は今でも憶えているよ、彼は画期的な研究をしていて、彼のエレクトロニクスはすでに高い評価を得ていた。だからここへ配属されたのだ。彫りの深い顔にプラチナブロンドの髪、背は高く200cmはあった。筋肉質の体にびっくりしたものだが、スポーツをやっているのかと聞いたらこっそりサンボをやっていると笑いながら話してくれた。勿論、女性達がほおってはおかなかった。シモンの方は女性には興味がないらしくて恋人はやはりエレクトロニクスだったようだがね」
パブロフは昔を懐かしむように話しを続ける。シモンがいかに有能でヤルツェボの未来を担う人材であったかという事、そして何よりも自分の片腕となってよく働いてくれたという事を切々とパブロフは強調した。2年程は研究も何事もなく進み、たったこの期間でヤルツェボ支部はそれぞれの分野ごとに新しい研究を始められるまでに大きくなっていた。人員も100人近くに増え、ソ連も国をあげてバックアップする体勢も整い、陸軍がその管轄を受け持ち頻繁に出入りするようになった。その頃の話しだ……とパブロフは少し遣る瀬無い表情をした。
 一室で化学実験が行われていたのだが、助手のひとりが研究用の化学物質の調合を間違え、大爆発を起こし2名が死に3名が重軽傷、1名が瀕死の重傷を負った。病院へ運ぶ手筈を整えていた時上層部からの命令が下った。機密事項に携わった者を民間の病院へ送る事はまずいと却下されたのだ。重軽傷の3名は軍の軍医に治療にあたらせれば良かったが、重傷者は今のままでは生死に関わる。重傷者の名前を聴き、パブロフは息を飲んだ。なんと生死の境をさまよっているのはシモンだったのだ。彼は化学博士に手伝いを頼まれ、実験の経過を見守っていたというのだ。パブロフは何度も嘆願した。若いこの博士はソ連の未来を支えてゆく柱となる逸材だといくら説明しても結果は同じだった。どうしたらシモンを救えるかパブロフは考え、自分の研究している機械工学に医学、医化学を合わせて助けようと試みた。プロジェクトという大義名分を掲げれば国は喜んで援助するだろう。すぐに了解が得られ大手術が始められた。しかし、シモンの現状を目の当たりにしてパブロフは愕然となった。顔の損傷がひどく、あの凛々しい面影が有るどころか火傷で原形を留めていない状態だった。左右の腕は肘近くからちぎれ、右足は膝から左足は踝から失い、内臓が一部破裂していた。出血がひどく呼吸も弱くなっていた。出来る限りの人数と輸血が用意され、国と軍も積極的に協力し、このプロジェクトの為に莫大な金と人の力が惜しみなく注がれた。
 シモンは、無くしたものを機械で補う事になった。失われた器官を人工にかえ、限りなく本物の肉体に近付き以前の生活が送れるようになる研究……それがパブロフの目指すものだった。シモンは一命を取り留め、段階を踏んでプロジェクトは進められた。損傷箇所の修理、人工器官の埋め込みと接続、そして柱となる骨格の修繕に補強取付、筋肉も同様に人工のもので補われ、色々な形で何度もやり変えながらデータを取り、1年半以上も掛けてシモンは元のように造られた。顔を失い手足さえも無くし、その状態で意識を取り戻したシモンは始め半狂乱になった。パブロフが事細かに事情を話し彼をよくよく説得して、この運命を共に乗り越えていく勇気をもたせた。もう一度やり直そうと力強く励ました時、シモンは自分が涙を流せない体である事に気付いた。そうやってひとつひとつを取り戻す日々が始まったのだ。
 だが、本当は別のプロジェクトも存在していた。ロドギエフのプロジェクトもまた国の名の元にシモンを使って行われていたのをパブロフが知ったのは、事故が起こってから2年経った頃の事だった。
 ある晩に、生物学の博士であるマーフィルトが青ざめてパブロフの小屋を訪ねて来た。小心者だが人のいい優しい男で、パブロフのプロジェクトの担当でもあった。マーフィルトは誰にも気付かれないように用心して来たらしく、おどおどして窓のある方へ行くとカーテンを思いきり引いた。この小屋に2人しかいないと分かるとほっとしてソファーに座りパブロフに小さい声で話し始めた。ロドギエフはシモンが超人である事に目をつけ、長年研究していた遺伝子操作を彼に行ったというのだ。シモンの超人としてのパワーと、それを補助する機械、有機物と無機物を組み合わせ新しい生命体を創造するプロジェクト。シモンの体が機械の拒否反応を起こさなくなるのを見て、安定維持出来ると判断したら全てが直ぐに動き出せるよう準備が整っているというのだ。突然変異の為のDNA構造をシモンに植え付け人工授精を行ない保育器で十分に育て、洗脳を繰り返しながら命令に絶対服従の恐ろしい程強大な超人軍団を作り上げて世界を潰すつもりでいる……とマーフィルトは話しを続けた。そして、全世界侵略を実行に移しているのだと言った。
『ソ連が……国がそんな事を本気であいつに指示したのか?』
パブロフはとても信じられないような顔でマーフィルトを見つめた。声が震え体中の血が一気に沸き上がるような位に熱くなるのが感じられた。
『これはロドギエフの陰謀なんだ!それに国が乗せられているにすぎん。あの男が最初っからソ連の国の為に自分の研究を利用したりしない。もし、ロドギエフのプロジェクトをこのままにしていたらとんでもない事になる。すでに動物の実験では99%間違いなく成功しているんだ』
『何て事を…。わざと事故を起こしたあげく、そんな実験を彼でやっていたなんて…私には考えられん』
マーフィルトはロドギエフに弱みを握られている事を打ち明けた。年老いた曾祖母に両親、離れて暮らす妻に幼いわが子……少しでも楽をさせたいと彼は研究用の物資を横流ししていたのをロドギエフに知られてしまった。ロドギエフは密告しないかわりに自分のプロジェクトに協力するよう強要したのだ。仕方なく手伝っていた筈が、マーフィルトはロドギエフの本心を知ってしまった。
それに、パブロフのプロジェクトの担当でもあった為、パブロフの思い入れが痛い程伝わってきていた。シモンの怪我の状況からするといつ死んでしまっても不思議ではなかった。シモンの優秀さはソ連にとって付加価値が付けられ無い程だ。パブロフの期待が大きかったのもよく判った。板挟みと横流しという重ねてきた罪の意識は、シモンへの同情へと変わっていき、自分の行動への疑問を抱かずにはいられなくなっていた。
『彼が生きているという事は形質転換が可能という事になる。超人でもなく、機械でもない……今まで誰も成し得なかった新超人類を生み出すきっかけにつながる。たとえそれがロドギエフでなくともいつか誰かが同じ過ちを犯すかもしれない』
言葉の裏にあるものは、“死”の他に何もない。マーフィルトは、悪逆な科学者の手に堕ちる事を確信せずにはいられなかった。
『だが、シモンは犠牲者なんだぞ』
『ああ……君の言う事が最もで正しい。しかし私達に何が出来る?ソ連がバックについているんだぞ』
パブロフは愕然となったまましばらく静かに考え込んでいたが、心に重大な決心をしてマーフィルトに頼み込んだ。

 シモンの暮らすドアに掛けられた錠前が外される音がした。今居る部屋は、特別に造られた部屋だとパブロフが話してくれたのをシオンは思い出していた。白い壁紙が全体を覆っていて、窓が南側と東側に2つ連なってある。窓は太い鉄の棒で仕切ってあり、外を覗くと白樺の風景の他は何も見えなかった。季節は、林の色づきで感じられるほどだったが、部屋の内部は小さな四角いテーブルと椅子が1脚、普段着などが入れてあるクローゼット以外は何も置いてはなかった。がらんとした寂しい部屋にシモンは独りでいた。毎日が検査と記録の日々。施設の中をあちらこちらと回り、ひとつの問題が片付けば更に手術と検査が待っていた。経過が良ければリハビリが一週間はびっちりと組まれてある。体の半分は機械にシリコン、合成繊維、プラスチック……それらの無機化合物が失われた炭素系化合物を補っている。2年をかけて造られた成果は目を見張る程シモンに人間らしさを呼び覚ました。自由に動くようになった手足に神経が走り、臭いをかぎわけられるようになり、食事に味を感じるようになった。一変してしまった生活の支えは、最終的に現場復帰する事だ。たとえ何年掛かろうと又研究を続けられたとしたらそれ以上に何も望むものは無い。いつか必ずその日が来るとパブロフは励まし約束してくれた。彼の言葉は信じる事が出来た。どんな現実よりも真実味があった。
ドアが開きパブロフが部屋の中に入って来た。パブロフの表情は切羽詰まった重苦しいもので手にはボストンバックがしっかりと握られている。シモンは不可思議に思い訳を尋ねた。パブロフは有無を言わせずシモンの手をおもむろに掴んでバックの紐を握らせた。
『シモン、逃げるんだ。すぐに衣類を詰め込んで裏に待たせている車に乗りなさい。さぁ急ぐんだ』
何がなんだか判らないシモンはパブロフを呆然として見つめる。
『逃げるって……どういう事ですか?だって俺はここで最終の手術を受けて……』
『顔の補修がまだだが、このままでも大丈夫だ。体全体の皮膚装着が出来なかったのは最大の問題だが生きてさえいれば又整えられるだろう。それよりも事は一刻を争う』
『どうして……俺はここにいて又研究を』
納得がいかずにシモンは再度呟いた。
『それは出来ん。いずれ君はソ連という国から特命を受けるだろう。私にはそれを止める力は無い。このままヤルチェボに居ては君の自由は無くなる。今以上に苦しむだろう。私は君をそんな事の為に助けたわけじゃない。しかし君の力を利用しようとする輩がいる。君は超人の血を……』
『ばれたんですか……』
『ああ、その力は人間にとって未知の魅力を持っている。君が人間の犠牲になどなってはいかん。君は体の半分以上はオートマトンだ。だが、流れている大半は超人の血に変わり無い。それをどうか忘れないでくれ』
そして、パブロフは一冊のファイルをシモンに手渡した。分厚い年季の入ったノートにはびっしりと文字が書かれ、細かい青焼きの設計図に、カルテが挟んである。カルテの患者名はシモンとなっていた。
『これは遺伝子操作のファイルだ。私に出来る助言は書いたつもりだ。読めば少しは参考になるだろう』
シモンの手は小刻みに震えた。遺伝子操作という言葉を聴いて今初めて自分に課せられた運命を知ったような気がした。この為に全てが空回りを始めた事も……。
『さて、忘れないうちに返しておこう』
パブロフは思い出して慌ててポケットの中から一つのペンダントを取り出し、シモンの掌に置いた。焼け焦げて煤け、鎖はちぎれていたが、それを見るなりシモンは嬉しそうに言った。
『これを何処で?』
『爆発の処理時に見つけていたんだが、刺激になるのではと思ってね、預かっていたんだ』
『これは、父母のたったひとつの形見なんです。この小さなロケットの写真だけしか残ってなくて……有り難うパブロフ博士』
シモンは堅くなっていたペンダントのコンパクト状のケースを開き、中の写真が無事であるのを確認して、大事そうにシャツの胸ポケットにしまうと、急いで支度を整えた。
 裏には一台のジープが留めてあり、パブロフは誰にも見られないよう注意には念をいれて通路を出た。座席の後ろに化学薬品を積め込み、その真下に空洞を作ってシモンを潜り込ませる。隙間には段ボールを詰めてずれないように固定をする。パブロフは助手席に乗って、賛同者である運転手に出発の合図を出した。ジープは勢いよく検問所のある門へやって来た。ひとりの兵士がパブロフに尋問した。荷物の内容の書いた書類を渡し、兵士はジープの窓ごしに中の化学薬品を覗いて確認のサインをすると門にかかったゲートを上げた。パブロフは大きな安堵のため息をついた。隣でその光景を見ていた運転手の男は緊張でガチガチだったとパブロフの検問時の状況を笑った。
 ジープは針葉樹の山道を越え、エニセイ河の沿道を走り、ヤルツェボの街を離れて行った。道路の先は遥か彼方に伸び、ジープのせいで砂煙が立ち登った。周りは平原に囲まれ緑のステップが延々と広がっている中を3時間程走ってケト河の上流に来た。河の麓までやって来て、ようやくシモンは荷物の下から出された。ジープを降りパブロフの言うがままについて行くと、河の端に小舟が一艘留めてあった。船頭がひとりいて、パブロフの姿を見て手を振っている。
『ここからケト河を下ってコルパシェコボへ行くといい。そこまでの道案内はこの人に頼んでおいたから心配しなくても大丈夫だ』
『パブロフ博士……本当に有り難う。貴方の事は一生忘れません』
ふたりはがっちり抱き合った。パブロフは全身全霊を傾けてシモンの幸福を祈った。ゆっくりと背中を軽く抑えた。
『生き延びておくれ……そして、又いつか一緒に研究をしようシモン。必ず』
『はい』
船に揺られて小さくなっていくシモンはいつまでもいつまでも手を振っていた。
「私は、その時彼を逃がす事しか思い浮かばなかった。ひどい話しだ。彼には当ても無かった。なのに、私はそれ以上何もしてやらなかったのだ。シモンはソ連から追われる身となり放浪を繰り返していた。のちにアニーシャと恋に堕ちる。そして……君が生まれた。だが、乳飲み子を抱えての逃亡には限度があった。とうとう逃げきれなくなって2人を逃がす為、追手に立ち向かい…シモンは死んだのだ。私の元に、マーフィルトがこっそりと持って来てくれたのは、別れる時に私が渡したマスクだけだったのだよ」
パブロフは胸が一杯になったのか、うっすらと涙が滲んでいるようにウォーズマンには見えた。少し落ち着いてから、パブロフはなおも話しを続けた。

 しばらくして、パブロフは、人づてにアニーシャのいる場所を捜し当てた。彼女を捜す事が使命のように感じられ、ソ連のあちこちを出来る限り廻り続けていたのだ。彼女はモンゴルとソ連の国境付近のハプチェランガという街に近いヤブロノイ山脈の連なる大草原地帯で牧畜を営む牧場主の元で働いていた。パブロフが訪ねて来ると知り、アニーシャはとても喜んで迎えた。まだ、彼女とシモンの血を受け継ぐ者が死んだと報告が上がっていないため、追跡の手は前程厳しくはなかったが依然として続けられていた。人目を避けてパブロフは単身旅行と偽り会いに行ったのだ。
 初めてアニーシャを見たパブロフは、彼女のくったくのない明るさに驚いた。案内された幽棲な小屋は貧相で中へ入るとほとんど何も置いていない上、彼女の羽織っている服も履いている靴も擦り切れる程痛んでいた。しかし彼女の腕に抱かれていたのはまぎれもないシモンの子供で、彼女は聖母の笑みで見つめあやしている。パブロフは子供をそっと受け取り抱いた。幼い……その子供は超人とも人とも機械とも言えない容貌をしていた。聞き取れない言葉を発し、抱かれているのが嬉しいのか手足をばたつかせている。きっと姿さえ見なければ他の子供と何等変わり無い。しかし、今自分が抱き上げているのはあのロドギエフが自分の陰謀の為に形質転換を行なった結尾で生まれた子供なのだ。この子に罪は無いにしても本当に人間の踏み入れるべき領域だったのだろうか……。シモンを救った等という次元を越え、ここに在る冷たい現実に直面して、パブロフは初めて間違いを犯したと悟った。原因の発端どころか神への冒涜だと思わざる得なかった。パブロフは考えていた。……答はしごく簡単だ。事故に見せかけこの間の前に居る子供を殺せばいい。そうすればこの子も苦しまずに済む。アニーシャもまだ若いのだからやり直せばいい。シモンもきっと許してくれるだろう。このままではみんな不幸になる。話しはシモンの思い出話しから逃亡生活の事やお互いに知らなかった出来事と次々に盛り上がった。夜が更けても飽きる事はなかった。彼女が死ぬつもりでいたところを助けられ、シモンの側にいるようになってから人柄に惹かれていった事、手を取り合って逃げ続けた事…どれも彼女にとってはかけがえのないものだったに違いない。パブロフは、シモンの体が遺伝子操作を施され、どんな結果を生む事になるかアニーシャは知らないと思っていた。ところが、彼女はシモンから全て聴いていたというのだ。この子は、大きくなり、自分の体の構造を知り、いつか比較を憶える。周りから冷たくあしらわれる。よがんだ心を持ち全てを恨むだろう…とパブロフはアニーシャに言った。この子をどう育てていくつもりなのか、心づもりはあるのか、と尋ねた。アニーシャはすぐには答えなかった。これみよがしにパブロフは尚も酷薄な言端を続ける。彼女の表情はこわばり、見透かされた事への恥ずかしさと同時に稟とした誇りが在る事も受け取れた。怒りも非難も返っては来なかった。静かにそれでいて慈顔のような真っ直ぐな瞳から送られる視線は、その後のパブロフの心にずっと刻みつけられる事となった。
『きっと、自分も周りの全てさえも恨み、憎み…この世に生をうけた事さえも許せなくなる日が来るでしょう。でも、信じたいんです。辛さを越え、自分の生きる道を見つけ出すと…。誰もがきっとそうやって生きていくんじゃないでしょうか…幸せって自分で見つけるものでしょう?だから大切に育てます。シモンが残してくれたたった1つの証だもの』
母子がひっそりと暮らしていこうとしているところへずけずけと土足で踏み込みしたい放題に荒らしたあげくの果てに罵声を浴びせた。私のしたかったのはこんな事だったのか?2人の間に生まれた子がどんな形をしているのかひとりの博士として興味があったのか?違う……私自身苦しかったのだ。シモンのプロジェクトに関わった罪の重さから逃げ出せればいいと心の中で思っていたのかもしれない。全てを無かった事にすれば……そんな風に何時しか考えていたのだ。知らず知らずのうちにパブロフは涙が溢れて、それを見たアニーシャはびっくりして慌てて駆け寄った。
「……ウォーズマン、君は何も知らずにあやされて笑っていた。母の愛に育まれて……。私は結婚せずひとり身だったから子供を持つ者の心が判らなかったのだ。本当に君の母さんに教えられたよ。私は別れ際、彼女にシモンの形見であるマスクを手渡した。マスクは私が持つべきものではないと思ったのだ。私は自分の役目が少しは果たされたと感じた。その後手紙で3度程連絡を取り合ったんだが、ある日を境に全く何の情報も入らなくなった。消息はつかめず、とうとう君達母子の行方は判らずじまいだった。だが、それから2年位たって電話が入ったのだ。私のネットワークでアニーシャが亡くなったという知らせだった。すぐに飛んだよ…君の事が心配でな。でも君はいなくて、アニーシャはすでに墓の中だった。訳を知るために聴き廻り、心もとない者が金欲しさに君をヤミ商人に売ったと知ったのは何日も後の事だ。追いかけたがレケットが関与していてどうしても居所は掴めなかった。…そうしてその子は生き抜いて今ここに居るという訳だ。私の知っている事はこれで全てだよウォーズマン」
パブロフは心に溜まっていた思いを吐き出し終えたようなすがすがしい表情をしている。さっきウォーズマンを迎え入れた時の緊迫さは何処にもなく、安堵の胸をなでた様子に感じられた。そして立ち上がり、窓の外に亭々たる白樺の林を眺め遣った。
ウォーズマンはうつ向いたまま顔を上げる事が出来ずにいた。自分の全く知らなかった両親の素顔が次第に浮かび上がり、胸が張り裂けんばかりに熱い想いが膨れていくのを意識せずにはいられなかった。いつの間にか涙が握りしめていた拳の上に落ちた。ひとつ……ふたつ……みっつ。
パブロフは黙ったままウォーズマンの肩に手を置いた。振り向いたウォーズマンを優しく見つめる眼差しはまるで許しを乞うような印象を与えた。
「結局はシモンにもアニーシャにも君にも……私は何もしてやれなかった」
「いいえ」
ウォーズマンはすぐさまパブロフの言志を否んでいた。
「少なくとも貴方が俺の父を助けなかったら俺は此処に居なかったと思います」
いままでならば、生まれてきたという自分自身の意味を受け入れる心の余裕は無かったような気がした。自分を受け入れるのはとても勇気のいる事だったのだ。存在さえ疎まれる日々は、両親を憎み続ける他なかった。全てを恨む事を生きる糧とした。だが今は違う。まるで靄が一遍に晴れたような心の中では不思議な位……誰も責める気持ちにはなれなかった。1年半程前にナテーラと病院で会い、話しをして貰った時の事も思い出された。自分が知らないだけで、なんと多くの人達がそれぞれの苦悩と闘って来たというのだろう。今日ほど己の歩んだ過去が恥ずかしいと感じたことはなかった。同時に今日ほど両親の愛情を感じた時はなかった。

 ウォーズマンはマスクの上をつたっていた涙をぶっきらぼうに拭き取った。パブロフはそれを見届けると、机の方に歩いて行き書類の重ねてある隅に置いて在るプッシュホンの受話器を手に取り何処かへと電話をし始めた。会話はウォーズマンの耳にも聴こえてくる。知り合いにこの建物まで車を一台手配して欲しいという頼み事をしていた。とても急ぐので早く来てくれるよう念を押した。目処が着いたのかパブロフは少し微笑みながらウォーズマンの顔をどことなしか寂し気に見つめた。
「車が来るからすぐにイルクーツクに戻った方がいい。娘さんを寝かせる毛布を用意しよう」
「そうやって父の時も母の時も助けてくれたんですね」
パブロフはウォーズマンの言葉に驚き、毛布を取りに行こうとした足を止めて向き直った。黙ったままほんの数秒の間ウォーズマンを視野の中に入れたが、ゆっくりと否定するように首を横に振りながら奥の部屋に入って行った。小さな声で「そんな事はない」とつぶやきながら……。
しばらくして、車が来たようだ。パブロフは用意した毛布を持って小屋の外へ出ようとしていつの間に車の周りを取り囲んだのか大勢の男達の姿にギョッとなった。手に握っていた毛布を思わず放してしまい、毛布は玄関前の階段をころげ落ちていく。小屋の中にいたウォーズマンはパブロフの漠々とした様子が変に思え、どうしたのかと尋ねた。パブロフは思い切りの声で部屋の中のウォーズマンに叫んだ。
「早く逃げろっ」
とっさに状況を把握してウォーズマンは奥に寝ているエボの方へ走った。彼女を抱き抱えようとして、表から一発の銃声が轟き渡った。エボの頭に手をまわしていたのをゆっくりと離した後、銃声の聴こえた玄関へと自然に足が進んで行く。心臓が激しく高鳴っている。開いた玄関の先にはうつ伏せに倒れたパブロフの姿があり、大柄の30人近い男達のいる先頭にはロドギエフが立ち、手にはライフルを構えていた。ウォーズマンは銃を撃ったのがロドギエフだと判った他は、まるで何も目に入らないような慌てふためいたままにパブロフの側へ駆け寄った。パブロフは胸に一発の弾を喰らい、かなりの出血のせいか荒い息づかいをしながらも何とか命をとどめていた。今すぐに病院へ運べば助けられるとそう思ったが、囲まれている上にこめかみには銃口が突きつけられていた。
「ウォーズマン、邪魔者は片付けたよ。これでゆっくり安心としてプロジェクトが再開出来るというものだ」
「あんたはパブロフ博士の片腕じゃないのか?どうしてこんな事を……」
「28年間というもの間こいつは私を脅してきたのだ。私の計画が国の為でない事を公表すると言ってな。失脚したくないのなら大人しくプロジェクトから手を引けと。ばかばかしい……何故私程の者が……。この男がマーフィルトにファイルを盗ませたりしなければこんな歳月を待たずとも実行出来たのだ。さぁウォーズマン、観念するのだ。私の手に負えないと思ってね、助っ人も頼んだんだよ」
ずらりと周りを取り囲んだ連中はウォーズマンを一斉に凝視していた。だが、どの顔も好奇心とあざけりと如何わしい笑いを含んだ眼で覗き込んでいる。こう多勢に無勢ではとても太刀打ち出来るはずもない。ベッドに眠っているエボの事も心配だった。まずは一刻も早くパブロフ博士を助けなければ……。
「俺をどうしようと構わない。だが、パブロフ博士の命を助ける事とエボさんを解放すると約束してくれ。頼む」
ロドギエフは必死に嘆願するウォーズマンをニヤニヤと見物した。どうしたものか。
「こいつの言う事を聴いても仕方ないだろう」
と言ったひとりの男の顔をウォーズマンは見つめ驚いた。少年時代に見た事のある面差しは紛れもなく逃亡する前に居た場所で拝み続けた顔だ。どれだけ悔しいと思い続け、どれだけ目標にした事だろうか。
「ヴィーストリック司令、何故あんたがここに」
ヴィーストリックは蛇の穴にいた幹部のひとりであり、自ら教練を行いそのしごきの酷さで皆から恐れられていた。昔のように長いブロンドの髪に抹額をはめ、後ろを邪魔にならぬよう一ヶ所に固く結わえている。皺の増えた顔からは何も感じないのか平気な毅然たる様子が伺える。黒のマントを羽織り、腕組みをしていた。
「おまえの脱獄で蛇の穴は大きな痛手を被った。おまえのように逃げ仰せると思った輩が増え実に嘆かわしい事だ。我々の組織も新しい商売を始めるんだよウォーズマン、この博士と共にな。それにはおまえの協力が一番てっとり早いんでね、これからはずっと我々の為にのみ働いて貰うという訳だ。裏切りの代償に選択の余地などあるわけないだろう、おまえはこれから苦しみも悩みも無いまま生きられるそうだ。その姿は見せしめに丁度良い。昔のように馬鹿にされる事も笑われる事も解らなくなる」
静かに笑う顔をとっさにウォーズマンは思い切り殴っていた。背丈はウォーズマンよりも高い230cmに筋骨隆々のせいか、パンチの威力を上手く受けたようでとても効いている風には思えなかった。
「それが生と死の間をくぐり抜け訓練された闘士の拳とはな。正義超人などと現を抜かしたおまえなど取るに足らん」
ヴィーストリックは勢いをつけウォーズマンの頬を打ち付ける。勢い余ってウォーズマンはそのまま後ろへ倒れ込んだ。罵声と中傷がどよめいた。
「やり返したければいくらでも相手になってやる。怪我人と人質の命が惜しくないのならな」
「くそっ」
「ウォーズマンを私の地下研究所へ連れていってくれ」
ウォーズマンの悔しそうな焦燥に刈られた姿を視てロドギエフは綻びた表情で指示した。ヴィーストリックは顔を横に、合図を掛けたので数人の超人がウォーズマンの腕を掴み上げ、引っ張った。すぐにその手を払いのけ地べたに横たわったパブロフの容体を伺う。抱き上げようとしてパブロフは蒼白な顔色で痛々しいながらゆっくりと眼を開けた。
「パブロフ博士……よかった、このまま眼を覚まさないんじゃないかと思いましたよ」
「あぁ……私の事は心配しなくていいんだ……それより……此処を早く」
「パブロフ……残念だったな。今一歩のところで逃がせたんだろうが、ウォーズマンはプロジェクトにご参加願える事になったよ」
ロドギエフはすかさずにつけ加えた。その言葉に驚嘆したパブロフは血の流れる胸を抑えながら起きあがろうと必死になって力を込め体を支えている。
「ロドギエフ……辞めてくれ。ウォーズマンは関係ない……彼はシモンではない……プロジェクトは……不可能なのだ」
「早くウォーズマンを!!」
「ロドギエフッ」
再び両手を締め上げられたウォーズマンは、叫ぶパブロフの声を背に超人達に連れ添われながら歩き始めた。それを見届けたロドギエフは怒りに打ち震えるパブロフにライフルの銃口を向け発射した。銃声が辺りに反響して、ウォーズマンはとっさに両手を捕まれたままの状態で振り返った。ロドギエフは突然の事で呆然とした。 うっすらと煙を噴くライフルの銃身をロビンマスクが軽く持ち上げているではないか!
「感心しないやり方だな」
ロビンマスクはそう呟いてからライフルを無造作に取り上げて力任せにへし折った。ライフルはヘアピンのようにくにゃりとねじ曲がった。
「おおい、エボさんは助けたぞーっ」
小屋の中にいたエボを蛇の穴の超人から助けたキン肉マンは、毛布にエボを包みこんで玄関口に出て来た。
「ロビン……キン肉マン……みんな……」
ウォーズマンは次々と現れる正義超人を見て声を張り上げていた。
「ウォーズマン、雑魚は俺達に任せろ」
ブロッケンJr.が大声で叫ぶ。ザッと10人程に取り囲まれたが得意のベルリンの赤い雨が一閃に空を走ったかと思うと袈裟切りに超人の体は裂け血が辺りに飛び散った。テリーマンが担ぎ上げた超人を垂直落下式ブレーンバスターで投げつけ、ハイキックを放ち、ひとりひとり確実に倒していく。テキサス・クローバー・ホールドでぐいぐいと締め上げると泡を噴き悶絶した。リキシマンは合掌ひねりで相手を放り投げる。ロビンマスクはタワーブリッジを披露していた。ウォーズマンは男達の両手を振りほどき全力疾走でパブロフのもとへ駆け寄ろうとして眼の前にヴィーストリックが立ちはだかっていた。
「よくもやってくれたな!殺してやる」
凄い形相をして襲いかかりウォーズマンの喉元を両手で思い切り掴み上げ体重をバネにして勢いよく地面へと叩き付けられた。ウォーズマンはすぐに立ち上がったが、すかさず抱き上げられショルダーバスターで顔面を強打した。ヴィーストリックはウォーズマンに反撃する暇を与えないよう自分の外腿に隠して置いた15cm程の鋭く尖った剣をすっと取り出し、まだ頭を垂れよく起き上がれそうにないウォーズマンがよろよろとこちらの方を向いたと同時に左胸めがけて右手を伸ばし突き刺した。ヴィーストリックは上手くいったと思った、が、自分の胸に激痛が走りよく見ると左胸から血が吹き出しているではないか。ウォーズマンのベアークローがしっかりと筋肉の間に食い込んでいた。ヴィーストリックの剣もまたウォーズマンの左胸に刺さっていたが、うまく避けた為心臓からは外れていた。
「あんたはまずくなるとその剣で容赦なく仲間を殺していた。その手に俺が乗るわけないだろう」
「甘く見すぎていたようだな……」
ヴィーストリックはそう言って少しニヤリと笑いながらその場に倒れ込んだ。ウォーズマンはヴィーストリックの胸からベアークローを抜き取り、何とかふんばり立ち上がるとふらふらとパブロフのいるところへ歩いて行った。左胸から血の溢れる傷口を右手で押さえながら小屋の壁に背をもたれたパブロフはぐったりとなっていた。
「パブロフ博士大丈夫ですか」
ウォーズマンの声にパブロフは反応して目を開けたが顔色はさっきよりも悪くなっていた。
「うううん……ああ……私は……大丈夫だ」
「救急車が来るまで、もう少しの辛抱ですよ」
「君は?」
「仲間が助けに来てくれました」
「そうか…仲間か…。ウォーズマン君、お願い……がある」
「何ですか」
「私を……奥にあるコンクリートの建物まで……連れて行ってくれないか」
ウォーズマンはその言葉に驚き、絶対に駄目だと首を横に振った。これ以上動いては出血が更に酷く。しかし、パブロフは何度も何度も執拗に頼み続けた。根負けし、ウォーズマンはパブロフを背中におぶさり歩き始めた。苦痛で息が荒くなっているパブロフを本当に動かしてよいものか罪悪感にさいなまれながら少しづつ階段を登り始める。
「君を再び見つけた時、とても辛かった。残虐超人として闘っていただろう。会いに行って……思いきり殴り付けたい心境だったよ。だが、まだ誰も君がシモンの息子だと気付いていなかったから……会いに行けば……まずいと思った。会いに行って……きちんと教えたかった。君のマスクを見て、シモンの息子以外考えられないじゃないか……」
パブロフは自分が与えたその場しのぎのはずのマスクが、巡りめぐって今このウォーズマンに受け継がれているという不思議な絆を感じていた。その話しを聴きながら、緊急用の5階まで登った階段から建物の下でいくらかの蛇の穴の超人とキン肉マン達がまだ戦っているのが見えた。
 建物の中に入ると、湿っぽい黴臭さが鼻についた。薄暗く、普段にもほとんどの人が此処へは来ないのかもしれない。独特の研究所くさい雰囲気の漂う空間のように思えた。両脇に長く続くドアの列。ネームプレートにはよく解らない部屋の名称が連ねてあり、その一番奥へ遣って来るとパブロフは持っていた鍵をウォーズマンに渡し、ドアの鍵を開けて中に入るように言った。中は驚くような設備が在るわけでもない、ごく普通の個人部屋のように見えた。本棚には、たくさんの資料が並べられ、業界の年表が年度順に揃っている。パブロフはウォーズマンの背中から降りると、よろよろと大きな机へ歩いた。ウォーズマンは先へ廻って椅子を手前へ引いてパブロフが楽に腰掛けられるよう気遣った。そして、大きく深呼吸をひとつ行って、机の下の隅に隠れていたボタンを押した。床から白い突起物が静かな音を立てて浮かび上がるように机の足に沿って這い出て来た。
「私はもう少し早くこうしなければいけなかった。だが……見届けるべきだと思ったのだ。どんなに捜していたか……。消息がつかめずとも……生きていると信じたかった」
パブロフはなおも出血が止まらない打たれた胸を押さえながらウォーズマンを見て、微笑んで見せた。ウォーズマンは金縛りに会ったように、何か未知の不可思議な力が働いたような強い念が自分の体という体の隅々に走っていくのを憶えた。これは……どういう事なんだろう?ウォーズマンには理解しようにも全く不可能と言ってよいほど何がなんだか判らなかった。 「私のわがままが皆んなをこんな事に巻き込んで……本当に申し訳ないと思っている。どうか許して欲しい」
「どうしてですか!どうしてそうまで……」
ウォーズマンはパブロフに喰って掛かっていた。その言葉にパブロフは応えないまま、白い突起物の中央にある赤いボタンを人差し指で強く押さえつけた。
「この……ヤルツェボ支部全体の……自爆装置を押した」
「え?」
「ウォーズマン……あと5分でここは全て崩れる。そう……作ったんだよ此処を」
「なんてことを!」
「皆んなに早く……知らせなさい」
「博士も」
ウォーズマンの大きな声にパブロフは微動だもしない。
「博士何してるんですか早く此処を」
それでもパブロフは椅子に深く座ったまま動こうとはしなかった。ウォーズマンは慌ててパブロフの手を握ろうとした時、建物が凄い振動で揺れ始めた。何処かで爆発が始まったのか大きな爆音と共に辺りは揺れの為に傾き出し、ガラスの割れる音、壊れる音があちらこちらで連動し続いている。パブロフは一緒に逃げようとしたウォーズマンの手を思い切り振り払い、自分の力で必死に立ち上がりぐっとふんばった。
「さぁ……仲間のところへ行くんだ。そして……胸を張って生きなさい……ウォーズマン……いや……○○○○……」
「?」
呆然としたウォーズマンを、パブロフは満身の力を込めてドアのある方へ押しやった。その時建物の天井が凄い勢いで落盤し、ウォーズマンの目にはパブロフが見えなくなった。今までに出した事の無いような大声であらん限りに名前を呼び続けたが、崩れ行く建物の音と爆発のすさまじさで声はだんだん聞こえなくなっていった。
 ヤルツェボの研究所は爆音と共に建物という建物は全て破壊され、中にあった研究施設も機材も一切こなごなに粉砕し火の粉が飛びはん滅してしまった。ウォーズマンはパブロフの元を身を切るような思いで離れ、皆んなに避難するようすぐに伝えた。蛇の穴の超人との戦いで多少の怪我はしていたものの皆無事に爆発から逃れた。それは蛇の穴の超人にしても同様だ。凄い音が街まで届いたせいか、しばらくすると消防車が何処からともなく数台現れ、炎の消えていないところの消火活動を始めていた。キン肉マンやロビンマスク達正義超人の面々はまだ熱を持った重なり合うコンクリートの間を掻き分けながらパブロフの行方を懸命に捜してくれた。しかし、パブロフの姿は何処にも見当たらなかったのである。
 ウォーズマンはコンクリートの崩れた破片からちらちらと燃え続ける火をぼうっと見つめていた。火は勢いをなくし、燃え残った僅かな滓をつたいながらも今にも消えそうだ。パブロフ達が一から始めた科学アカデミーの支部はあっけらかんと一瞬にして消えてなくなったのだった。救急車が到着したのでエボは街の病院へ運ばれる事となり、ウォーズマンの見送る中担架に寝かされて車に乗ろうとした。彼女は既に意識を取り戻していたので、ウォーズマンに気を遣わせないよう笑って見せた。エボを乗せた救急車が走り出した後、救助作業をしていた2〜3人の男の隊員の中のひとりがウォーズマンの方へ歩み寄り、分厚い断熱加工を施した手袋に握っていた小さな煤けた鎖を見覚えはないかと尋ねて来た。ウォーズマンの掌の上に載せると、それは見た事のないペンダントだったが、どこか見た事のあるような印象があった。ペンダントはトップがロケットになっているようで、扉がある。おぼつかない手先で黒く変色した扉を開いてみると小さな写真が入っていた。セピア色に変わった古ぼけてしまった写真。男性と女性が写っていて、どちらも歳はさほどとっているようには思えなかった。30代がいいところだろう。じっと見ていて、自分の記憶の中にインプットされたものではないとウォーズマンは判った。
「さあ……憶えがありません」
そう答えて隊員の手に返した。鎖がするするとこぼれ落ち、受け取ったのを隊員は確認すると作業の続きをする為に現場へ戻ろうとした。不思議な程、ウォーズマンは突然にパブロフの言葉が頭の中を掛け巡り始めた。
「待って下さい。もう一度ペンダントを見せてもらえませんか」
隊員は快くペンダントをウォーズマンに手渡した。中の写真を見てウォーズマンは、はっとなった。この写真は、パブロフの小屋の奥の部屋で見た女性ではないのか?確かに写真は爆発に巻き込まれたせいか薄汚れているが、写っているのは紛れもなくパブロフの話しからすれば彼の姉に相違ない。少女のような微笑みはこの写真には見られないがふたりの幸せそうな笑みは和やかな暖かさを感じさせた。何故だ?何故パブロフ博士の姉さんの写真がペンダントに入っているのだろう?ウォーズマンは理解しようにも頭の中でこのつながりがどんな意味を持つのか判らなかった。ふっと脳裏に浮かんだのは彼の家族の話しと、シモンの言葉だった。
『これはたったひとつの父母の形見なんです』
じゃぁ……シモンの母親というのは……パブロフ博士の……姉さん。パブロフ博士は……俺の……
「嘘だ」
ウォーズマンは呟いた。
「パブロフ博士……どうして本当の事を教えてくれなかったんだ。俺には血の繋がった肉親が生きていると、どうして名乗ってくれなかったんだ?俺はひとりぽっちじゃないんだと……どうして言ってくれなかったんだ?ちくしょうーっ……」
大きな声を張り上げ、壊れたコンクリートの瓦れきを押し退け必死でパブロフの姿を懸命に探し始めた。涙が止めどなく溢れ、よく見えないまま所構わず瓦礫の山を掻き分け続けたせいで両手の指先からは赤い血が滲み出し瓦礫に着いている。見かねたロビンマスクがウォーズマンを止めに掛かった。
「離してくれ。俺は絶対に探し出すんだ」
ロビンマスクの手をおもむろにはね除けてなおも掘り起こし続ける。ロビンマスクは両手先から血が滲むウォーズマンをぐいっと向き直らせた後、渾身の力を込めて右の頬を殴りつけた。はっと我に返り、ウォーズマンは全身から力が抜けていくのを感じて傍にへたり込んだ。
「しっかりしろ。そんな事をしたって答えは見つからんぞウォーズマン。おまえに全てを打ち明けた方がどれほど救いとなった事だろう……それを黙って生きてきたんじゃないのか?博士は。おまえの事を気掛けてずっと遠くから見守ってくれていたんだろう。おまえはけっして一人じゃなかったのだ。見えない力にいつも見守られていたんだよ。そうは思わないか?ウォーズマン」
ウォーズマンは体中からくる堪え難い震えに涙が止めどなく溢れ出しマスクの頬をつたってその場から立ち上がれない状態だった。

 翌日、予定通りにイワンとエボの結婚式はイルクーツクで執り行われた。天気はこれほどはという位の晴天で絶好の日和だ。シベリア内陸気候のイルクーツクは元来高気圧の発生しやすい地方で晴れ間の多いところで有名なのだが、今日は特に澄み切った空をしている。イルクーツクは「シベリアのパリ」と呼ばれている町並で市街は煉瓦造りの建物、美しい旧ロシア正教の修道院が数多くあり、古い型の車や路面電車が走り、その間をぬうように荷馬車が駆けていく。蹄鉄の乾いた金属音が軽やかに聴こえる。通りにはトーポリの街路樹が並び白い綿毛が雪のように舞っている。白い綿毛というのはトーポリの種子が風に乗って空中を漂っているのだ。表通りや公園などは行き交う人々に賑わいをみせていた。短い夏を謳歌しようとする人やこの季節になるとやって来る観光客など色々な民族の人々が集まって賑わっている。道路脇には年配の女性達がおもいおもいにライラックの花束を抱えて花売りをやっているし、公園の片隅ではオレンジジュースのようなレモネードやこの時期の風物詩であるクワスを売っている。人々はこのライ麦を発酵させて作った冷えた甘酸っぱい飲物がとても好きで列をつくって並び自分の番がくるのを待っている。そんな通りの外れに位置している式場の小さなホールの一室に新郎新婦と代表の男女一組の友人の4人は入って来た。厳粛に30人程の老若男女が見守る中を、厳かに式は始められた。中央には中くらいのテーブルが有り、そこにはひとりの女性が立っていて、端には3人編成の楽団がいて、待ちかねたように演奏をはじめた。サキソホン、エレキギター、キーボードで結婚行進曲が緩やかに流れる。その中を新郎新婦は進んで奥の用意されたテーブルで待っていた女性はノートを差し出した。2人は交互にサインをして指輪の交換の後互いにキスをした。それが終わると、部屋の数人が慌ただしくパーティーの準備に取り掛かった。テーブルの上に並べられるロシアの料理は地元郷土のものだ。前菜のザクースカの中にはイクラ・チョールナヤにイクラ・クラースナの他はアグレツ、シビルスキー・ボルシチにサリャンカ等のスープ、シャシャリークやカツレツにタバカといった肉料理等素朴で味わい深いものが多い。入り乱れる中、いつの間にかシャンパンスコエで乾杯の音頭がとられ、周りは大賑わいだ。正義超人達はそれぞれの目的の料理や地酒に舌鼓をうち大喜びをしている。ブロッケンJr.はロシア製のジグレフスコエのビールを一気飲みし、リキシマンは相撲甚句を披露している。テリーマンはジュリエンを手にしたまま集まって来た若い女性達に囲まれサインを強請られて少し困った顔をしながら笑っていた。バヤン奏者の口髭を蓄えた老人が、部屋の隅にいたウォーズマンに新婦のリクエスト曲を引いて欲しいと頼みに来た。手にはアルト・バラライカを握り、この楽器でも大丈夫かと尋ねた。ウォーズマンはゆっくりと頷いて何の曲がいいのかと老人に聞いた。
「“さすらい人”だよ」
嫌だとは言えず、ウォーズマンは弾き始める。辺りはいつの間にか驚くほど静かになり、どうやらリクエストの音に耳を傾けているようだ。“バイカル湖のほとり”として親しまれるこのロシアンフォークは19世紀初頭に国内に起こった民主主義思想の政治運動で捕らえられ流刑された流刑者を歌ったものだ。彼等はシベリアの荒野の山の中で金を掘らされていた。ひとりのさすらい人は獄屋を逃れ出て、運命を呪いつつ袋を肩に担ぎバイカル湖まで辿り着く。彼の思いを、声音はバイカル湖に流れて行く……ふるさとの歌。それはそれは哀しいほどの甲高い音色に、皆何の言葉さえ見つからずただ黙ったまま深い重い拍手をウォーズマンに投げた。エボは新郎のイワンの隣で同じように拍手を続けている。ウォーズマンは弾き終わったアルト・バラライカを老人に返そうとした。
「実はその歌の続きがあるんだがおまえさんは知っているかね?」
老人は少し微笑みながらウォーズマンに問いかけて来た。ウォーズマンは首を横に振る。
「知らぬのならば……」
と老人は話し始めた。彼はバイカルを越え、懐かしい母と再開を果たす。しかし、父は既に墓の中、弟は今も流刑のまま。さあ、行こう……倅や、私はおまえを待っていた……。母親はそう言ってふたりは故郷へと還って行った……。
老人はそう説明してから、ウォーズマンの背中にゆっくりと2回手を掛けた後、バヤンで先ほどとはうって変わって陽気なリズミカルな“カリンカ”を弾きながらその場を離れていった。その姿を背中越しに見つめていると、突然肩を捕まれた。振り向くとロビンマスクが立っていて特に何も喋りはしないが、じっとウォーズマンを見張った。
 紅茶を頼んでいたのか、給仕の婦人がチョールヌイ・チャイをロビンマスクに運んで来た。トレイには白と瑠璃色が美しいグジェリのティーカップに紅茶が並々と注がれ沸き立つ湯気と一緒に香ぐわしいかおりを辺り一面に振りまいている。カップの傍らには小さな小皿があり、お手製のラズベリーやストロベリーのジャムが盛ってある。ウォーズマンはロビンマスクの勧めるままロシアンティーを口に含んだ。つい、前に飲んだパブロフが入れてくれた時のお茶の味を思い出していた。もう……あのお茶は口にする事は出来ないのだ。急に切ない寂しさがよぎった。しかし、と今自分の立っている周りを見回した。相変わらずホールの中はたくさんの参加者で盛り上がり、踊り好きのロシア人達が休む暇もなく伴奏に合わせてワルツやフォークダンスを次から次へとこなしている。
「ロビン……有り難う」
ロビンマスクは聴いていないのかそっぽ向くようにダンスを見入っていた。
「俺は……ずっと独りだと思って来たんだ。何もかも恨んで来た。この体中の全て……俺の存在そのもの……嫌いで仕方なかった。還る場所は永遠に無いと思った。
だが、俺はたくさんの人達の旋還の中にいるのがよく判った。独りなどでは決してないんだって今なら感じる事が出来る。俺が悩んでいたのは、本当のところ……誰へも近づけずにいる自分にはがゆかったのかもしれない。難しいかもしれないが……やってみようと思う事があるんだ」
「ほう……」
ロビンマスクは笑いながら一言そう呟いた。ウォーズマンが自分から口にした新たな目標はきっと彼の人生にとって最高の喜びへとかわる事だろう。そう願わずにはいられない。
「ところで……ロビンは再婚する気はないのか?」
突如ウォーズマンは話しを切り替えした。紅茶を含みかけて吹き出し、ロビンマスクは思いきり咳込んでいた。
「何だ?急に」
「いや……あのふたりを見ていたら……」
その先はとても口にする事が出来なかった。幸せそうにはにかむ新郎新婦の仲睦まじい姿は憧れというよりは幻のように感じた。エボ、イワンいつまでも幸せに……。心から人の幸せを願った事は本当のところ初めてかもしれなかった。いままでに感じた事のない幸福を自分も憶えた。有り難う……父さん母さん……パブロフ博士……ナテーラさん……皆んな……。
俺をロボ超人として愛してくれて……有り難う。
「おーいロビン、ウォーズマン!こっち来て一緒に踊らんかー」
「キン肉マンが呼んでるな」
「みんなダンスの輪に入ってるのか」
ウォーズマンとロビンマスクにはホールの真ん中で参加者一同がフォークダンスに盛り上がっているのが見えた。愉快に軽やかなステップを踏みながら声を上げている。
「凄いな、リキシマンは紋付き袴で踊ってるのに楽しそうだ」
ロビンマスクはその言葉に爆笑しながらウォーズマンと共にダンスの輪の方へ……彼等を待っている人々の方へと駆けて行った。

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