悋気

 私は城壁の下で叫ぶ彼の言葉を噛み締めていた。 彼は今、私の居る下邳城を大勢の兵士と共に取り囲んでいた。戦い倦ねる私は、彼の声を否定する事も出来ず、返す言葉もなかった。
  私は高い城壁越しに彼を見下ろしながら、ふと過去の出来事を思い出した。

 昔、彼と私は追われる身の上だった事がある。
董卓暗殺に失敗した彼は、洛陽を着の身着のままで逃げ出したが、彼の人相書きは直ぐに各地へと出回った。その頃の私は中牟県の県令であり、関所を通ろうとして捉えた彼を連れて来て詮議した。彼は洛陽に送られる事など恐れていなかった。面白く感じ、私から牢屋へ出向いてよくよく話してみるとこの亂世の憂いの中にあって熱い思いと未来を見据えていた。自らが今何を為さねばならないのか……彼の瞳は輝きを放って、明日死地に送られる自覚など微塵も信じてさえいない様子だった。
 ああ……この男こそ、私の待ちわびた主君となる者に違いない!
私は自分の内なる思いを誰にも告げた事はなかったが、度重なる飢饉や戦の中で人々が貧窮し翻弄される姿に涕涙しながら憤懣を抱いていた。そのような昏々と渦巻いていた胸中が遂にここに来て初めて日の目を浴びた。こうなったからには何としてでも彼と共に命をつないで苦しむ人々を助けなければならない!
 突然の賛意に彼は喜び、私は彼に随身した。月の出ていない真っ暗な中をひたすら歩いて中牟県の城内を抜け出していた。道すがらお互いに沢山の思いを語り合った。

 彼の郷里礁郡に戻った後、私は彼を傍で支える事になった。彼の廻りに多種多様な人材が続々と集まり始めた頃、東郡の守備を任される話が持ち上がった。
「どうして私を東郡へ?陳留には貴方の親友張邈殿が居られます」
「其方ならば万事の対応にも長けているから安心して徐州を攻める事が出来るというものだ」
「しかし……」
「くれぐれも頼んだぞ」
彼はそう言い残し徐州の陶謙を攻める準備に力を入れ、私の話をそれ以上聞こうとはしなかった。
 心の中が晴れぬまま東郡に赴き政務をこなし慣れて来た頃、陳留に居る張邈殿が数人の部下と共に着任の祝いをと土産を持ち訪ねて来た。不可思議に思いながらもてなすと、酒が入った張邈殿は大騒ぎを始め、場に連ねて居た者に当たり始めた。
「どうされました。何か不手際がございましたか」
宥めてみたが不愉快極まりない顔をしたまま私を見つめるばかりだ。
「うるさい!出てゆけ!そいつもこいつも皆出てゆけ!酒がまずい。儂はお主と差し向かいで飲みたい」
剣に手を回そうとするのを見て慌ててその場に居合わせる者を離れるように告げたので、広い中にぽつりと二人きりとなると、張邈殿は落ち着いた顔に戻り静かに腰を下ろした。
「すまぬ。他の者に話を聞かれたくなかったのだ。これでゆっくりお主と話せる」
「その為にわざと。……どうされたのです?急に」
「……私は孟徳から命を狙われている」
「酒の席とはいえそのようなご冗談は度が過ぎましょう」
私は突然の事に耳を疑ったが、張邈殿は俯いたままで深刻に語り始めた。
「儂は酔ってなどおらぬぞ。徐州の次はこの儂を狙うつもりでいるのだ。それが証拠にお主を儂の傍に置いた」
「そのような事は断じてありません」
「お主は彼奴の本当の姿を知らぬだけだ。許汜が儂に知らせて来た」
「許汜殿が?それは又奇な事でございますな」
「許汜もお主と同じ思いでいる。彼奴がお前を本当に大切に思うならば傍に置いていよう。そうではないか?どうしてお前はこの地にいるのだ。私は知っているぞ。青二才を傍に置いてお前は左遷され……さぞや不本意であろうな」
「何を申されたいのですか」
「青二才が企んで、お前は引き離されたのだ」
「まさか!」
「全く人のいい男だ。傍に居てお主気付かなかったのか?青二才が孟徳に入知恵しているのを」
「そのような事……」
「単刀直入に申す。お主も儂が呂布殿と親睦を結んでいるのは知っていよう」
「呂布……その男は天下無双なれど何度も主を裏切った者と貴男もよくご存知のはずです」
「だからこそ、この通り直にお主に会いに参ったのだ。儂を助けてくれ」
「……兗州を……狙っておいでですか。
私は聞かなかった事にします故、このまま直ちにお帰り下さい」
「いいや、儂も腹を決めてお主の許に来た。聞かれたからには後戻りは出来ぬ。どうしても拒むならお主を殺しこの城の兵を連れてゆく」
「ならばそうなさるがよい。私の首一つくらい安いものです」
張邈殿は私の口からそのような返答が返って来るとは夢にも思っていなかったようだった。人一倍優しいこの人物は焦りと塞がった思考で上手い具合に呂布にまるめこまれているだけに思えた。
「兗州で説得したお主の力が儂には必要なのだ。呂布殿に一度会ってみてくれぬか。儂の申す事に納得がいくだろう。お主が策を練り彼奴等を見返してやろうではないか」
「私に裏切れとおっしゃるのか……」
「裏切るのではない。このような時代だ、強い者につくのもひとつの道だ」
「呂布に出来ると申されるのか」
「そうだ。あの男なら出来る。必ず出来る」
「この叛逆が失敗するとは思わぬのですか。青二才達が次々に行く手を阻んで来ますぞ」
「そのような事を恐れてお主の許に来れようか!このままおめおめと彼奴に打たれる位なら戦地で命を失う方がマシというものだ。さあ!腹を据えよ!今ここで命を失うか儂に付いて来るか、好きな方を選択せい」

 数日後、下邳城内部の裏切りに遭い盟主も私も捕らえられ、綱を巻き付けられたまま引っ立てられた。
目の前に、彼が居た。一段高い場所から私を見ている。
「何故このようなところに居る」
彼はぽつりと呟いた。
「隣の男が私の言うことを無視した為にこうなったのだ」
私は躊躇いもなく盟主である男を見た。盟主は恨めしそうに私を睨みつけて全ての責任を私が仕組んだ策だと言い放った。
「何を言う。私を疑いどのような策も一切受け入れなかったからこうなったのではないか」
しかし盟主は反論する事よりも目の前の勝者に命乞いする方が先決だった。
「見苦しいぞ呂布!早くコイツを連れてゆけ」
彼は周囲を取り囲む兵士に合図した。しかし兵士達が大きくがっしりとした体格の盟主を刑場迄引っ張るには骨が入る事だった。抵抗して両足を踏ん張り奮闘していたが、大勢集まって来た兵士に無理矢理引き摺られるような形で連れて行かれた。

 「さて、うるさいのは居なくなった。再び問う。お前の母や子は……どうするつもりだ」
私を見つめた彼の目は透き通って全てを見透かしているかのようだった。しかし彼の隣に居る劉備やその義弟達は私を見下した目つきで凝視している。仕方あるまい……背に腹はかえれぬ事とはいえ、私は劉備やその義弟達を利用したのだ。
「この様な時代だ、母も子にもよく言い伝えてある。貴方の思う通りにすればよい。恨み等せぬ。さぁ、私を連れてゆけ」
「……」
「さぁ早く私を連れてゆくのだ」
私は立ち上がり、左右の兵士がつないでいる縄をぐいぐいと引っ張った。
兵士達は少し驚きながら歩き出した。
「陳宮!」
彼は叫んだ。
「どうしてだ!陳宮。どうしてお前は私の許を去ったのだ。お前が私の許を去る等信じられなかった」
腰掛けから立ち上がり、もはや誰の視線さえどうでもいい風に慌てている様子が足音で伝わってきた。私も足を止め振り返りじっと彼を見つめた。
「ならばどうして私をずっと傍に置かなかった」
彼は一瞬にして私の言葉を理解したのだろう。
「違う。儂はお前を……」
「もうお互いに、何も言うまい」
私は彼の言葉を遮った。それ以上私は言葉が出なくなって下を向いた。涙があふれたのだ。こうなってしまった自分の運命等に対してではない。私は再び兵士を引っ張るように刑場に向かって歩き出した。
彼は私の名前を大きな声で二度叫んだ。

 彼が私を東郡に就かせたのは、無論兗州を見張る為ではあったが、実は彼なりの優しさであった。忙しさの余り体調を崩していた私は医者から静養するよう告げられたこともあり、東郡には私の年老いた母と妻や子も居たからであった。私は……その事を理解していたのだ。

 「孟徳殿、貴方がこの果てしない大陸をひとつにまとめるまで私は貴方の傍を離れずに居ますぞ」
「おお有難い!其方が儂の傍に居てくれるならば百人力だ。その時迄どうかこの儂に尽力してくれ」
彼はそう言って私の手を力強く握りしめた。あの日の事が今だからこそ鮮明に蘇る。
 張邈殿の誘いを断りその場で切られておけばよかったのかもしれぬ。そうすれば私は永遠に殉じる事が出来た。いいや、仮に拒んでいたとしても張邈殿が私を切る事が出来ない事も分かっていた。だからこそ私は自ら彼を裏切った。それは何ものにも堪え難い悋気であり、憤悶と情炎に身を焦がし続け、今ようやく沈静する事が出来る私が望んだ秘めたる道なのだ。
 出逢った時、私は何時までも彼の傍に居ると信じた。それは叶わなかったが、これからは彼の心の中に悔悟という念で生き続けるで在ろう。

私の宿志は成就したのだ。

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