雪裏清香

 劉備は考え事をしながらゆらりゆらりと的廬の背に揺られ長く続く道を進んでいた。襄陽を離れてもうすぐ新野城近くまでやって来たので一旦安堵し、的廬をゆっくりと歩かせていた。荊州の隠士である司馬徽の庵を訪れ夜遅くまで話していた時の言葉が頭から離れず、何回も何回も堂々巡りをしていたのだ。

良き賢人を迎える事が、今の貴殿に一番必要な事であろう

 そうはいっても、司馬徽は会話の中に出て来た賢人と呼ばれる鳳雛と臥龍が住まう肝心の居所は教えてくれなかった。尋ねようとして話しを逸らかされたので劉備はそれ以上尋ねる事が出来ないままであった。仕方なく問う事を諦めて庵を去ったわけだが、どうしたらその賢人達と会う事が出来るのか、全く検討が付かないでいた。
 つい先日、襄陽城の宴に招かれたが蔡瑁から策を懸けられ危うく一命を落とすところだった。幕僚である伊籍の機転で難を脱する事が出来た。更に的廬が壇渓を渡り切れなかったならば今頃この命は無かったやもしれない。己が荊州で劉表の配意で食んでいるという、言葉に出来ない不甲斐ない思いを噛み締めていた。

 溜め息をつき、ふと目を前に向けた際、前方の道沿いに聳え立つ大きな楠の木の根元にぐったりとなった人影が見えた。何気なく見遣っただけだったが、馬が近付いた時によくよく見てみるとそれは男で、背中越しに苦しそうにしているのが分かる。どうしたのだろう、腹の調子でも崩したのであろうか?
 急に昔の放浪していた時分を思い起こしていた。義弟達と共に義勇軍として旗を揚げ戦いに加わった頃、官軍でない為に苦い思いを沢山した。食うものにさえ事欠き、とうとう道に生える草や根を穫り煮て食べたあの時あの味を忘れる事など誰が出来ようか。体を壊し薬も無く倒れそうな体を引き摺りながら道をひたすらに進み戦いを繰り返した。さてもそんな惨めな日々が思い起こされて来たのは、その男の苦しそうな後ろ姿に同情してしまったせいかもしれない。
 如何にも気になり、遂に馬から降りて男の方へゆっくりと進んでみる。どういう男であろうと苦しんでいるのには変わりなく、もうすぐ日も暮れる。そろそろ城が見えて来るだろうとはいえ、ここ周囲には民家もなく、せめて城の中まで連れて行かねば野犬等に襲われる事も有るやもしれない。放っては置けまい。
 劉備は襄陽城の一件もあるので剣に右手を掛けながらその男の傍へそろりと寄って覗き込むように尋ねた。
「どうされた?具合が悪いようだが歩けるのかね?」
男は急に声を掛けられた事に気付き俯いていた顔を上げた。
劉備が顔色の優れぬ生汗をかいている男をじぃっと見詰めると、おや……、思っていたよりも立派な顔立ちに厳しい眉で秀でた風格を持っている事に驚いた。身なりは黒の頭巾に単の衣を着た芳しい衣服ではないが、庶民らしからぬ爽達な人格を漂わせている。声を掛けた時のおずおずとした思いなどすっ飛び、気持ちまで明るくなっているのが劉備自身にも分かった。良き人材を求索せねばと焦る一途な思いがそうさせるのかもしれない。
「旅のお方と見える。どこぞ新野を訪ねるのであれば連れて行ってやろうと思うが……」
「いえ、当てはありません」
男は劉備の瞳をじっと見てそう呟いた。
「ふむ、ならば私のところへ御出でなさい。薬もあるし休んで行かれると良い。美味しいものでも食べれば直ぐに元気になるだろう」
劉備は笑みを浮かべて言った。男はどう出るだろう………誘いに乗ってくるだろうか?
「ご配慮辱なく存じます。しかし私は一介の旅客です。そのお姿から察するに、私が参堂すればご迷惑をお掛け致します」
ふと、劉備は自分の姿を見直った。言われた通り上衣や下裳には刺繍の施しがあり、どう見ても土地の豪族に見える。
「何を言われるのか!遠慮する事はない。私も困った時には多くの方々に助けられた。それに正直な話しをさせていただくが、私は貴男に興味を持ったのだ。これも何かの縁、宜しければ旅先の話しでも私に聞かせて下さらぬか。さぁ立ってこの馬にお乗りなさい。新野の私の邸まではもうすぐだ」
劉備の言葉に男は、初めて嬉しそうに笑い掛けた。

 関羽は劉備の邸前まで馬を飛ばして来たが、馬から降り小屋に連れてから使用人に手綱を渡した。そこへ張飛が同じ様に馬の手綱を引き連れて現れた。
「おう!二哥も同じ考えか」
「大哥が昨日妙な男を連れ帰ったと聞いたので急いで来たのだ。何処の馬の骨とも知れない者を何の疑いもなく邸に泊めるとはどういう事か聞かねばならん」
「おうさ!俺もそいつを聞きてぇ」
二人は少し怪訝な顔をしながら、邸の石畳の上を大きな歩で門口へ向かった。
「ただでさえ先日の襄陽城で一命を落とすところだったのだぞ。なのに又襄陽へ赴いて水鏡という隠士の処へ一人で出掛ける等……いい加減自重してもらわねば皆が困る」
「俺も気が気でならねぇ。おまけに連れて来た男に簡雍は会ったらしいが、只者ではないと言っていた」
「うむ、ただの病人なら気にはすまいがな」
関羽と張飛がそう話して歩いているところへ、劉備と噂の男が何やら話しをしながら向かって来ているのが見えた。劉備は足を止めて二人の義弟を笑顔で待っていた。
「大哥」
「二人ともいいところへ来た。紹介しよう、この方は単福殿だ。単福殿、この二人が私の義弟です。右に居る男が関羽、左は張飛」
関羽と張飛、単福は腕を合せて互いに挨拶を交わした。
「旅の道すがら私の様な者がお世話を被り感謝の言葉もございません。何かのお役に立てればと劉皇叔に旅先でのお話等をさせていただいております」
「そうなのだ。単福殿の話しはためになるぞ。これから益州の話しをしていただくところだ。お前達も一緒にどうだ?」 劉備は殊の外上機嫌で二人の義弟達に話しを聞く事を勧めたが、関羽と張飛は単福を恐ろしい程の形相で睨みつけて黙っているのには流石の劉備も困った。
「二人とも単福殿をそんなに睨んで失礼ではないか」
「当り前ではありませんか。大哥はつい先日蔡一族から命を狙われていたのですぞ。なのに独りでふらりと出掛けて皆がどれほど肝を潰したのかお分かりにならぬのか!その上何処の誰とも分からぬ者を邸の中に招き入れ、何を考えておいでだ」
関羽は怒鳴るように言い放った。
「怒るな一弟。お前の諌めはよくよく骨身に応えるておる。しかし単福殿はお前の思うような者ではない。昨日本当に具合を悪くしていたので私が邸に連れて帰り医者に診せただけだ」
「医者は何と申したのです」
「胃痙攣を起こしたのであろうと言うておった」
「そんなもんはしばらくしたら治っちまうだろうが!重病とは言えねぇじゃねーか」
居たたまれなくなって横から張飛が口を挟んでいた。
「単福とやら。お前はどうして大哥に他国の話し等持ちかけて煽るのだ。誰かの差し金か。事と次第によってはお前を許さぬぞ」
関羽は持っていた剣に手をかけたので、劉備はそれを止めようとしたが治まらずに今にも抜いてしまいそうな状況となった。 「疑われるのは無理もございません。私は劉皇叔にご迷惑が掛かると申し上げましたが、それでも苦しむ私を放っておかず馬に乗せ、ご自分は邸まで歩いて来られました。このような厚遇は生まれて初めて故、せめてお礼に私が直に歩いて集めた情勢等が有用ではと思っただけでございます」
関羽はそれでも剣を手から離そうとしない。
「儂が大声を出し刀に手をかけようものなら、誰もが縮み上がって許しを請うのが通常。お前は微動だにせずして儂を見据えておる。ただの旅客とは思えぬ」
「嘘偽りは誓って申しておりません。本当でございます。それに関羽殿のようなお方が私のような一介の旅客を是非も問わずに斬りつける事等ありましょうや」
「何を屁理屈こねていやがる!益々怪しいぞ!こいつは痛い目に合わねぇと吐かねぇ」
張飛が思わず前に出ようとするのを関羽が止めると、単福は劉備の前で頭を深々と下げ、関羽も張飛もあっけにとられてその姿を見つめた。
「実は……長い間尋求している旅中で噂を聞き及び荊州へ戻って来ましたのは、この身命を懸けお仕えしたいと願う仁君をようやく見つけたからでございます」
「お前は……士路を探していたのか?」
関羽は愕眙して呟き、張飛は突然の展開に訝しげな顔をして単福を見つめた。 「はい。実は新野にてお目通りしたいと存じておりましたが、このような形で自ら使君の仁徳を拝し感慨無量でございます。話しに聞いていた新野の民の頌歌は故あるかなと了得致しました。私の修学し得ました事を用舎行蔵叶えばとお願い申し上げます」
「そのような礼をされずとも。さぁ単福殿お立ち下され。して、学んだものとは……」 劉備は目を輝かせて単福の手を取った。 「兵法でございます」

 その夜、劉備の邸内で酒宴が催された。劉備の主な従臣達が集められ、新しい軍師を囲み厚誼の酒が酌み交わされた。  単福を即座に軍師として招聘した劉備に関羽も張飛も驚き問い質そうとしたのだが、劉備は二人の義弟を振り切って単福を連れてさっさと邸の中に入って行ってしまった。そういう理由で、関羽も張飛も面白くなく不愉快な顔をして酒をかっ食らっていた。
 席の隅に居た趙雲は、酒宴の前に劉備から直に単福が軍師に就いた事を説与された。このところの塞ぎ気味を案じていたが、明亮で悦びを隠しきれずに酒に酔う劉備……主公の姿を見て、趙雲は少し安堵した。これ程までに歓喜させる単福と言う男はいかような逸材なのであろうか。少しは興味があったがその事を誰かに尋ねる程でもなかった。軍師という策士自体も身近で見た事が無いのだから想像のしようも無い。手腕はいずれ自ずと判るだろうと考えた。
 そこへ張飛が酒瓶を片手にやって来て趙雲の隣りにどっかりと腰を降ろす。
「おう!又ひとりで呷っているのか。お前は場の雰囲気が判らん奴だな」
趙雲は返す言葉もなく黙って杯を口へ運んだ。
「相変わらず返答無しか。口を開いてたまには俺の話しに乗ってくれてもいいじゃねぇか?なぁ趙雲、お前は興味ないか、あの単福という奴の事」
ちらりと見遣る先に話題の主単福が主公の隣に坐って居るが、趙雲が更に黙したまま酒を己の杯に注ぎ飲み干す姿に張飛はイライラして来た。自分の目の前に居るこの男は、閃光の如く戦場を走り廻り誰が何も告げずとも二哥(関羽)や自分の楯と成り守りと成ってくれる。そのお陰で思う存分に蛇矛を振う事が出来る事はよく理解していたし謝意を抱いていた。その事を趙雲は恩着せがましく言う事など一切ない。だからこそ、この男は誰よりも頼もしいが、酒の席では頓と話にならない程戦での面影がなく実にこじんまりとしている姿が侘しく思えた。武勇を欲しいままにし、誰からも慕われているが、どうしてこういう賑やかな席になると途端にクソ面白くない奴に変貌してしまうのだろう?と何時も思うのだが、どう嫌みを言っても代り映えしないので仕方がない。
「なぁ趙雲よ。お前は口が堅いからこっそりと話すが、俺はあの単福という男、なかなかしたたかな男と見た。それでな、ちょこっとばかし間謀を当たらせてみる事にしたんだ」
趙雲は張飛の宣告に杯を落としそうになり、目を見張ってまじまじと張飛の顔を見た。
「何を考えておいでだ。本気じゃないでしょうな」
「本気だ。お前に冗談を言っても面白くねぇ。お前は酒を飲みながらだと全然笑ったりしねぇからな」
しかし絶句する趙雲の顔は何とも言えない程滑稽に見え、これは痛快!と張飛は急に面白くなって大笑いしながら話しを続ける。
「あの単福という奴はこれから兵士を募って軍全体の調練を始めるらしい。大哥が安心しきって一任しちまったから、まぁしばらくはお手並み拝見てところかな。上手く行かなかった時大哥に進言するのさ、彼奴の素性はこういうので、だから俺が最初に言っただろう………見ず知らずの男を信じるなんてこたぁ、しちゃいけねぇ。俺達は今までだって自分達だけの力で戦ってこれたんだ。軍師なんざ何の役にも立たねぇ!とな、言い放ってやるのさ」
「最近張飛殿は六韜を読んでいると耳にしましたが、その影響ですか」
「まどろっこしいが少しは勉強しないといけねぇと思って頑張ってるんだが、そうか、その影響かな?嬉しい事を言ってくれるじゃねぇか趙雲。兵法くらい俺だって使おうと思やぁ使えるんだぜ」
褒めてしまっては成り行き上まずいと思い直して趙雲は話しを変えた。
「関羽殿はどう言っておられるのですか」
「不服に決まってるだろ。でも大哥の決めた事は絶対に従う二哥だからな、今のところは黙って様子を窺っているんじゃねーかな。その方が俺としては動きやすい。詮索されて小言を言われちゃ敵わねーから、絶対にさっきの話しは他言なんねーぞ」
話したいだけ話して満足をしたのか、張飛は空になった瓶を振り回して酒を持って来いと叫びながら部屋の奥に行ってしまった。
趙雲は溜め息をひとつ付いた。

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