2003年7月14日
初めての鄭成功誕生祭

 この日はまだ陽が登っていない朝4時半に出発!早速国道に出ると、朝早い時間帯なのに結構トラックの往来で賑わっていた。うっすらと明けて行く空を見つつ………今回は高速道路を使わず下の道を走る事に。背振山脈の梺を高速道路が通っているのだが、予定では裾野に一番近い道を選ぶはずが(道が混まないと思い)佐賀県鳥栖で道を間違え、軌道修正しながら探しへ続く道を進む。昨夜遅くまで雨が降り背振の山々にかかっている雲の情景が言い表せない程の美しさを醸し出していた。ここは金立山中腹には徐福を祭る祠(秦の始皇帝の不老不死の薬を探す命を受け徐福が蓬萊を目指し日本へ来たという伝説。不老不死の薬は寒葵という説がある)があり、そう遠くない場所には吉野ヶ里遺跡もある歴史深い地域だ。
 途中コンビニ等に寄りつつ神埼→小城→多久→伊万里→松浦へ抜けて平戸へ向かう。伊万里までは見事なまでの山を越えた旅路。伊万里は初めて通ったが通勤時間と重なって道が思いっきり混んでいた。伊万里から平戸までは海沿いの道で、右手には海が広がる中に小さな緑に囲まれた島々が浮かんでいるのがとてもよく見え気持ちがいい程に美しい。かと思いきや驚く程大きな工場や火力発電所も点在しているので、それもちょっと驚き。反対車線の道路傍には長身の鬼百合が段々に連なる花をあちこちで咲かせていた。
 松浦から1時間半程走ると目的地である朱塗りの平戸大橋がうっすらとそびえているのが目に入った。通行費は必要だが、軽だと片道100円(2010年より無料)。昭和52年に出来たという真っ赤な吊り橋を渡って、直ぐ左手に伸びる383号線の千里ヶ浜沿いに有る川内町丸山公園に向けてへと車を走らせた。が、最初廟の場所が分からず川内町の郵便局に立ち寄って尋ね、教えてもらって鄭成功廟のある丸山公園内までやって来たが、車が無造作にあちこちに止めてあって入れない。たまたま来た地元の人に聞いたら「奥に突っ込んでいいよ」という事で駐車させてもらった。廟は駐車場から少し小高いところにあるのだが、鋪装された道を登って行くと受付があり、何だか集まっている人の雰囲気が違う。聞くと関係者が集まるらしく、私は廟の前……海側に有る展望台に登って始まるまでの間、眼前に広がる海をのほほんと眺めていた。たまたま、壮年代の方から話し掛けられ、佐世保の方で白石著の本を読んで来たくなって……という事から長崎街道等色々な話をしてもらう事に(笑)。いつもなら台湾から沢山の子孫の方等が訪れるという事だが、今年はSARSの関係で来れなくなってしまったそう。毎年近くのホテルで前夜祭が行なわれ盛り上がるのだとか。日本からも台南の廟へ出向いたりと相互での交流が行なわれている話だった。いつもこの時期は梅雨なので雨だが何故か鄭成功祭当日は毎年晴れて相当に暑いらしいのだが、今年は例年になく涼しかったような話を聞いた。  10時となり廟の前で粛々と神事が始まった。私は後ろの方で見ていた。地元の有司や小学生がテントの下にズラリと座って順に礼を拝して行く。現地集合になっていた弥七Jr.さんと合流。その後奉納されたじゃんがら踊りは地元の男の方達による踊りで、声を合わせながら笛・太鼓の音と共に踊るのだが、とても柔らかな感じでゆったりとしたものだった。反比例するかのような時々鳴る爆竹には驚かされた。不思議な感じだなぁ……色んな民族的なものや文化が溶け込んでいて。神事自体も驚いたけど。踊りが終わると祭も終わり。さぁ!写すぞ!と思ったら(始まる前は写せる雰囲気では無くて、とてもとても)横で関係者の方々はお食事会を始めたのだった。ふと見ると鄭成功座像の膝にポンと榊の束を置いたまま。この和やか〜な雰囲気を誕生日の主役である満379歳の鄭成功がきっと一番喜んでいるように感じられたのが何とも素敵。英雄で地元の誉れであるとはいえ、自分の今いる土地を守り祖先を敬う……というのは昔は当然だろうが、現代の日本では何となく難しい事のようになっている気がする。実は、始まる前から頭が気分良く(笑)クラクラ渦巻いていて、こういう廟というような場では初めてで驚いた。祭が終わった途端にクラクラは見事収まってしまった(笑)。私は鄭成功の魂に会えたのかな?。台湾?から来たのか日本語の上手い男の方が地に手を付けて熱心にお参りしていたのが印象的だった。デジカメで「自分と廟を写して下さい」と頼まれたけど充電切れで写らず弥七Jr.さんがコツを教えて撮るのに成功(いえ、駄洒落なつもりはぁ(汗))。廟の中に入り手を合わせた後、色々と写し足りないと後で思わない様、思う存分っっっに写した(笑)。鄭成功像は、優しいイメージの文官の姿をしている。台湾の像をモデルにしてあるようだ。御霊?分霊というのかな、それも向こうから分けてもらって建立してるようだ。
 ここには、戦で苦しんで戦った姿は微塵も感じられ無い程………きっと幼い頃の優しい思い出と暖かな風土のイメージが残っているのかもしれない。物語を読めば読む程、自分を追い込んでいく姿が痛ましくもあり、しかし同時にひとつの美を連想させたりもする。帰りにお弁当を食べていけばいいと誘われたが遠慮をしてその場を離れた。  廟近くの鄭成功児誕石に行ってみることに。港前の千里ヶ浜の端に行ってみると、道路からすぐ下れない崖下にあって呆然。少し回ってから浜辺に下りる階段を見つけて朝より潮がひいた浜辺から近付いて鄭成功児誕石を写した。細かい砂が敷き詰められた海岸はどこまでも青い空と共に映える。海で産気づいたお母さんのマツさんはこの岩を握りしめて成功さんを生んだという話。伝説だろうか?よく見るとその場に線香もあげてあった。さっき居た人があげたのかな?と話しつつ、きっと子孫の方か研究者だったのか?
 その後、鄭成功居住跡を探すが資料もなく車をあちこち走らせ………実は直ぐ近くに有る立て札を私が見落としていた(汗)。廟から200m港側の民家の中にある。車を港近くに置いて近くに行くと金比羅神社がで〜〜〜ん!←鄭成功関係ではない。その横に鄭成功が植えたというゆかりのナギの木がそびえていた。辺りは草だけが青々と茂っていて、少し右上に媽祖を祭ってはあったが、昔のままの木があるだけで他に所縁の有るものは無かった。
 今回鄭成功の祭りに行きたいと思った理由は、去年2002年に公開された『国姓爺合戦』の影響だった。主人公を演じる趙文卓は私が見ていた香港映画のアクションスターで『風雲』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』とか功夫がやたらかっこよかった。興味本意で見た映画の主人公はハーフで日本人でもあったそ平戸でロケをした話も興味深かった。掘り下げて本など読みたいと思い探したが鄭成功関係の本は日本では見事なほど少ない。
 話を戻すが、映画は10年という歳月をかけて作られたようだが、映画本編では鄭成功が子供の頃に居た平戸を描いた箇所は少なくロケを行なったのに使われた場面もかなり少なく、平戸のイメージが薄すぎたのはとても残念(そのせいかのちに出た日本版DVD(このころ流行った中国映画の影響だろうが……なぜか日本版は『英雄』というタイトルに切り替えられた)には平戸の映像がメイキングとしてある。ちなみに私は中国版DVDとVCDも持っている……同じ物だが、どれだけ好きかわかっていただけるだろう)。しかしまぎれもない平戸生まれの中国と日本の血を受継いだ人物が『抗清復明』を掲げて奮戦し、台湾を占領していたオランダと戦って台湾の為に努めた歴史と心は現在も強く残っているように思う。日本での知名度はまだまだ低い気がするが、私は日本の誇るべき素晴らしい英雄のひとりだと心から思う。そうか………あの一途さは本来持つ日本人の心でもあるのかもしれない。そうも感じた。この方の物語に触れる機会が有りましたら、是非探してみてほしい。
 この後寄った平戸市街にある松浦史料博物館に伝えられる小さな鄭成功像と鄭氏の印鑑が所蔵されていたのを見たので、日本の鄭成功に関しての史跡巡りや関連ものはこれで一応終わり。きっと出生の地なので、もしかしたら知らない何かは眠っているのかもしれないが、私は今日の出会いに大いに満足した。誰も居なくて2人の貸しきり状態と化してじっくり見る事が出来てラッキ〜。ミュージアムショップで鄭成功の本購入。本当は上・中・下巻があるが、さすがに1冊で諦めた(その後に通販で注文し計3冊読んだが、歴史書としてなぞられた話でありながらどの物語よりも痛快で真意に溢れているように感じる)。
 その後アゴ(飛魚)のかまぼこを買い、車で聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂に行ってみた。淡い緑と白とグレーの建物だが、中の天井も実に見事な教会。平戸は色んな宗教が集まってるところだが、前日の7/13はここの祭だったのだとか。裏手から寺院と教会風景の見えるスポットがあるという事で回って石畳の階段を下りて行ってみたら……お寺が解体中だった〜〜〜。白い布が被せられていて、ちと残念だったかも。お墓も見事に並んでおりましたが(笑)。車に戻ってから、そろそろ帰途につかないと………という事で、途中のバス停で弥七Jr.さんとはお別れ。まだ午後3時を回ったばかりだったが、私は再びひとり平戸大橋を渡理、元来た道を戻ることに。
 川内の海は、夏という季節なのに静かで暖かな表情をしていた。何時か又平戸を訪れて、静かな鄭成功廟の展望台から一望出来る海を再び見たい。晴れ渡った空と、涼やかに凪ぐ海と、白い雲は遠い昔も今もそう変わっていないかもしれないから。379年も昔に生まれた英雄を幼くして育んだ海はここ以外何処を探そうとも何処にも有り得ないから。この海こそはその心を育んだ広さがあるような気がして、どうしても忘れる事が出来ないのかもしれない。鄭成功と川内の海に心から敬服する。
2003.7.14 よるのかに拝

2004年5月24日〜25日
木偶連れの旅

 平戸に行く前に有田に寄り、磁器の絵付けをすることに。鉛筆で下書きし、呉須を筆につけて描く。濃淡は水で薄めて塗る。前に一度絵付けに訪れたのでわかっていたが……やはり置いてある筆がでかいのばかりで小さな筆を持って行くの忘れてしまい、書き辛いったらありゃしない。私の描いたものはこの後釉薬をかけ焼かれてから、1ヶ月後位に送られて来る。
 絵付けを終え、有田から平戸に抜ける近道を窯元の御主人に教えてもらい山を越えたが、傾斜が恐ろしく急で激しく驚いた。あっという間の1時間弱で着いたのが午後2時40分頃。早速と思い鄭成功廟に直行したら入口の戸が開かない(汗)、鍵がかかっていた為あっさり諦めた。7月の鄭成功祭の際は凄く綺麗に飾ってあったが、今はあちこち枯葉が積もりまくって寂れ感が否めない。妙に風に音をたてる枯葉に淋しさを感じながら平戸市街に行ってみた。ぶらぶらしていたが、宿を決めなければと川内の民宿に電話したら、突然のことで驚かれたが泊まれる事となり、客が他に居なかったので大きな部屋を用意してもらった。お風呂に入り夕食が出たがシャレにならないほどまずく、旅をして生まれて初めてだった。更にちょー怖い思いをして眠れずTVを朝まで付けっ放し。朝方とうとう疲れ切って眠った感じ。素殿(木偶)を部屋に置いていたのが救いだった……本当に、マジで。旅を色々したが宿でこんな怖い思いは後にも先にもこの時だけ。色々な意味で凄い。
 翌朝、朝御飯は意外に美味しく前日が嘘のようだった。川内名物の川内かまぼこもあってシコシコ歯ごたえがよかった。宿をとる出て川内峠に着いたのは朝7時45分頃。長く伸びた道を登って見晴らし位の良い高台に上がる。だだっ広い中に居るのは私と素殿だけ。露で一面濡れている中写そうとしたらうまくいかず段々疲れて来て素殿も疲れてだら~~~んとして生気なし。しかし何とか踏ん張って写した。川内峠はやはりびっくりする程素晴らしい。草原の中で左右に海を見れるのは島だからかな。2時間位しちゃもちゃした後峠をあとにして、途中真言宗の最教寺の門を見たら寄りたくなった。霊宝館には掛け軸や仏像があったが、2体水天という松浦水軍の秘仏が安置してあり、青い肌で亀に乗っていて、頭には数匹の蛇、手にも蛇を握っていて、珍しいなぁ~~~と思った。もう1体は阿弥陀三尊。3人が手前斜めに傾いた仏像で、これも珍しい仏像!と変わったものが見れて非常に満足。帰ろうとしたら上の三重大塔も見れると言われ案内の通り行ってみると………竹やぶの細い道、両脇にはズラリ並んだ地蔵があり、凄い(汗)と思いつつ、塔に登って行くと奥の院だった。三重大塔に入ると胎蔵界を地下に作ってますので体験されますか?と聞かれ、何だろうと思って聞くと、赤ちゃんの時の真っ暗な世界を再現しているという事で、中はマジ真っ暗!でした。3/4程来たら、突如不動尊が炎の中から現れるように作られていて驚いた。3階まで上がって景色を眺めた後、車に戻って帰路についた。帰りは唐津経由で。沿岸の道をず~~~っと。しかし、途中福岡市に入ったら道が混んでいて凄く時間をとられ、いつもの道と同じ時間位かかってしまった。色々ハプニングもあったが、何とも貴重な旅だったかも。

2011年7月14日
親子(母娘)旅

 朝6時半過ぎに出発。ルートは長崎道の高速道路を走り武雄北方ICで下り伊万里から松浦の海沿いの道を走るコースに。松浦の海沿いの道の横には至る所で丁度コオニユリが沢山咲いていた。長崎スゴい……現在の福岡でコオニユリを見ようと思ったら、私は平尾台以外で見た事が無い。昔は背の高くそびえて咲いていたオニユリはどこにでも見掛けるフツーの花だったが、今は見れなくなった花のひとつだ。「スゴいね~」と母親と話しつつ平戸大橋を越え、祭りの場所へ車を走らせた。
 現地の平戸市川内町の鄭成功居宅跡に到着したのは10時30分近かった。近くの臨時駐車場に車を置いて行くと鄭成功居宅跡にテントが張られて沢山の人が狭い居宅跡に集まり挨拶が次々と行なわれていた。母親は苦手なので離れた日陰に居た。暑い中人が沢山で最初私は日陰に入れず日なたに立っていたが暑すぎてなんとか日陰に入る事が出来て30分を過ぎた頃、居宅跡より少し離れた低い場所でジャンガラ踊りの出番を待っていた方々が次々に音を鳴らし始めた。ジャンガラ踊りの出番を待っていた方々の傍に居た母親のそばへ行ってみると、ぽそりと母親が言った。「踊りと音が合わないから音合わせしようと始めたら慌てて人が来て「話しがあっている(中国の人の)。うるさいから止めてくれって言ってたんだよね。可哀想だよね……暑い所で出番を待っているのに」と。外部の私はかなり驚いた。
 私は鄭成功の像が撮れるのならば祭り以外の日でよかったのだが、廟の鍵が開けられるのは祭りの7月14日だけ。一眼の画像で残しておきたいと思った為だった。8年前に鄭成功生誕祭を見た時はSARSの影響で台湾等からの来客も無くこじんまりとしていたようだが、明らかに当時と雰囲気は変わっていた。
 鄭成功生誕祭は当時子孫と地元の方々による素朴なお祭りだと信じて疑わなかったが、この日端で見たのは祭りというより気を遣いまくった親睦会にしか見えなかった。話しが終わったのが11時過ぎ。人をかき分け鄭成功の像の写真を撮ろうとしたら、像の前で記念撮影をし始めたり説明を始めたり、寄って撮っていたら足を踏まれ……久しぶりウッキー状態になって、ジャンガラ踊りの写真を数枚とってそそくさと会場から離れてしまった。結局この時像が記念館に来ていたので、廟には行かずじまい。像が撮れたので満足ということで。
 車に戻り「もういいの?」と不可思議そうに言う母親を乗せ鄭成功児誕石の方に車を走らせた。千里ヶ浜には無料駐車場が出来ていたので母親に日陰に居るように言ってから、数百メートル離れた鄭成功児誕石まで砂浜の上を歩く事に。朝ここを通った時は満潮だったが、丁度引き潮で砂浜から石の所まで歩けたのはラッキーだったが……とにかく石までが遠い(^^;)。ハヒハヒ言いながらゴミの散乱した浜を歩いた。確かココは海水浴場のハズで、以前こんなにゴミが散乱していたかなぁ?と思いながら危うく川の水が海に入るところで濡れそうになりながら到着して写真を撮った。像の前では手を合わせるどころではなかったので、ここで手を合わせた。時間がかかりすぎて心配した母親が浜辺に下りてきていた。駐車場近くにはハマナスの花が咲いていた。
 市街に行き美味しそうだったので母親と共にちゃんぽんを食べる事に。あっさりとして麺は結構太麺。これがいわゆる「平戸ちゃんぽん」なんだなぁと納得。具も沢山で美味しかった。食べ終わって、松浦史料博物館に。鄭成功に関する展示物が来ていたので見たかったのだ。鄭成功という国姓をもらった後にもらったという印鑑。台湾の承天府で使った印(だったと思う)。清の時代に描かれた絵画。チラシやポスターになっている武将姿の彫刻等。松浦藩時代の展示等を見た後にミュージアムショップで特別展のパンフはないか尋ねたら「特別展用のパンフレットは作ったんです。ですが関係者等に配った分のみでありません」「ポスターもですか?」「はい、申し訳ありませんが残っていません」呆然とした。鄭成功を関係者だけの親睦と観光の為に利用したいのだろうか?私の今まで抱いていたイメージが完全に崩壊した。
 とはいえ、泊まった民宿……今回の宿は魚料理が美味しかったし、翌日朝に寄った『渡唐大師像』は良かった。弘法大師は平戸の田ノ浦から唐に旅立ったとされる(実際は違うという説もある)。川内峠も再び行ったが、今回はススキが伸びて草をかきわけ先端まで行く勇気はなかったがススキの穂がたなびく景観も川内湾が見渡せるのも素晴らしい。
 生月島まで足を延ばし、更にその先端にある大バエ灯台にも行った。最初誰~も居なくて大丈夫なんだろうかココ……と恐る恐る行くと、灯台関係者の車が3台停まっていたので、ホッ!素晴らしい断崖で怖い所。塩俵断崖も景観は見事だが断崖だから結構怖い。生月大橋は渡る時チョー怖い。生月大橋付近の道のりもかなり怖い。道が崖に近い……。平戸城の天守閣にも上り写真を撮ったが天守閣から見渡す景観は素晴らしかった。帰りに佐世保の方に回って真新しい水族館『海きらら』に行ったが……クラゲの展示は面白かったが想像していたよりちょいこじんまりしていたかも。
 ゆっくりと平戸を堪能できたのはよかった。

2020年に思う

 上記よりかなりの月日が流れ、その後平戸に出かけていないので現在どう変化しているのかは定かではないが、観光として立ち寄れるスポットなどは増えているようだ。YouTubeなどをみると廟で祭りをやっている時もある様子。
 先日福岡の道の駅に平戸のパンフレットなど多数あったのでもらってきた。2011年の祭りがかなりトラウマになっているが、機会があればまた行ってみたい。

鄭成功の主な小説

・鄭成功 旋風に告げよ | 陳舜臣著
・朱帆ー鄭成功青雲録/怒帆ー鄭成功疾風録 | 高橋和島著
・怒涛のごとく | 白石一郎著
・新国姓爺合戦物語り | 福住信邦著
 個人的に白石一郎さんと福住信邦さんの本が良い。現在ではかなり手に入れにくいだろう……面白いのに。

鄭成功の主な映像
(私が持っているもの)

・英雄-国姓爺合戦-DVD/中国版原題『鄭成功1661』DVD/VCD……2001年
・大明国姓爺VCD
 英雄-国姓爺合戦-のそもそものタイトルは『国姓爺合戦』。当時の流れで英雄がつけられたのだろうが、そのままで良かったのに……。余りにも気に入って中国版のDVD・VCDまで購入。

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