長想思
私は3ヶ月もの長い旅を終えて一旦荊州の襄陽に居たが、再び短い旅をする事になった。何故…私が旅をしなければならなかったのか…、話は3ヶ月前に遡る。
私はこの時代の人間ではない。
この話は、貿易を行う中国人から、自分の父親が残した遺言であるという北京に保管されている“とある物”を私に取りに来て欲しいという国際郵便が届いたので、慰撫かしながらもその“とある物”を受け取る約束をして飛行機に搭乗した事から始まる。しかし、その飛行機は上空でトラブルのせいか急降下してしまった。私が気を失って意識を取り戻した時、どうしてこういう事になったのか定かではないが、遼西へ逃れていた袁煕と袁尚の兄弟を追い、更に北上した烏丸討伐を始めていた曹操軍に出くわし、騎馬隊武将に見つかり不審者と疑われてあわや殺されそうになったところを危機一髪助けられた。その時私を助けてくれた人物と新野へ向かう旅をする事になったのである。
旅の出発を、崔州平夫婦が見送ってくれた。荊州の多くの賢人達同様、崔州平も又劉表の許に出仕せず、仲間とこの乱世を論じるひとりであった。大尉の息子としての過去がある事で、その本当の心を分かり合える友人は数人だった。特に徐庶元直はその気持ちを理解していたので、崔州平は自分の邸近くに建つ主人の寄り付かない邸を管理したり色々な形で力添えしていたのだ。この徐庶元直という人物こそ、今旅をしているもうひとりと共に私を助けてくれた人だ。襄陽に住居を構えつつ隠棲の士としてその時代の遊学賢人を輩出した司馬徽の門下生であった徐庶は、私の見せる不可思議な言葉と話、その時代には到底拝めない印刷物や製品を面白いと感じて、師というよりは義兄の様に慕っていた司馬徽にどうしても対面させたいと思ったようだった。実際には、私が勝手にこの司馬徽に会いに行ったのだが、そこで問われたのは存在理由であり、重大な転機であり、選択の恐ろしさだった…。
時を同時にして司馬徽の庵には、ずぶ濡れになり白馬的廬に跨がって劉備玄徳がやって来た。先客の私に気を遣い、自分の身の上に起こった事(川を泳いだ事)を苦笑しつつ話してくれた。その姿、福々しい何とも言葉に出来ない印象深い面立ちをしている。徳に厚い雰囲気を醸し出し、凛々しい心を抱き、少し寒さに震えながらも毅然としていた。荊州の城内で仕組まれた慰労会に出席したはいいが、宴会に乗じて殺されるところを壇渓に飛び込んだ的廬によって救われたのだ。私は名残惜しそうにする劉備に別れの言葉を伝え、庵を後にした。
この先…私はどう生きていけばいいのだろう?結局とどの詰まりは其処に行き着いてしまう。私は何故この時代に来なければならなかったのか?そもそも分かるはずなどない。だが、答えは出さなければならない。辛い事実だが、この乱世を生きていく他に選択権などあるはずないのは無性に堪えた。
居候している徐庶邸に戻ってから、劉備の姿が浮かんだ。歴史の中で、この人物が本当のところどういう人格者であるか、私は本の中でしか知らなかった。劉備は義兄弟の関羽と張飛と共に侠の徒だったという説もある。私のこの眼で見た劉備という人は、侠の徒だったかもしれないが、優しい瞳をしていた。皇叔と言われる程の人が、一介の庶民の出立ちの私と接しても何等威厳ある態度も見せず、同じ位置に立ち、話をしてくれたのは驚き以外の何ものでもない。
会いに行ってもいいかもしれない…と思ったその日、徐庶から劉備の許に仕官するので自分に付いて新野へ来ないか?と誘われ、言葉に詰まってしまった。
ああ…そうだ、徐庶はこの時代、劉備の参謀になるんだった…。まだ素性さえ明かしていない私に徐庶の言葉は痛い程突き刺さっていた。良心の呵責に苛まれたところでどうしようもない。徐庶は、私に行く宛もなく頼る者さえいない事を知っていた。だから優しい言葉を掛けたのだ。私がしなければいけない事は、包み隠さず事実を打ち明けて、それでも新野に誘ってもらえるかどうかという事のみだ。当然、倭国の者とは知りつつも、遠い想像だに出来ない未来からこの時代にやって来たという話は、信憑性に欠け、徐庶は困惑を隠せずに居た。しかし、3ヶ月を共に旅して、全く相通じない生活感と何かしら相互間に芽生えた感情が、疑う予知のない事を徐庶はよく理解していたので、話すうちに自分の中で飲み込んだようだった。
更に力になって欲しいと頼まれた。私は襄陽に着くまで、眼の前の人が徐庶であるなど全く知りもしなかったし、歴史上登場する人達と関わる等想像さえしていなかった。今度は私が大いに困った。新野に行き、知っている未来を活かさなければいけないのだろうか?冗談じゃない。末恐ろしいというより、曹操の南征が頭に浮かんで離れなくなっていた。歴史が正しいならば、いずれ新野はその勢力に屈服する事になる。避難民を入れて凡そ十万、その膨大な参列は、劉備に連れ立って運命を共にしようとするのだろうか?返事が出来ずにいる私に徐庶は無理弄は出来ないと伝え、少しでも早く出立して軍を整える急務を行いたいからと直ぐさま襄陽を後にした。部屋に残された書簡には、面と向かって言えなかった想いが綴られて居た。だから…私はこうして今、新野に向かっている。
旅といっても、前の3ヶ月もの長い徒歩での放浪生活とはかけ離れている。馬の背に乗り食事用の食材もきちんと積んでいて、何よりも歩かずに移動できる事は有り難かった。昼に襄陽を離れて、ゆっくりと進んでいたとはいえ、さすが馬に揺られたせいでお尻の皮が擦り剥けるという体験を初めて味わった。新野はまだ先という手前の山で夜を迎えた為に野宿する事になり、私がぐったりとうなだれている間に旅の相手はてきぱきと食事を作り上げて、糒と粥を器に盛っていた。手渡され、湯気のたつ粥を口に入れながら、いつもの薄味でそっけない旨さに溜め息をひとつ零しつつ、焚き火向こうに居る燈色に写し出された旅の相手に眼をやった。無言で会話一つなく辺りは闇の中にすっぽりと包まれて、微かに焚き火に焼べた枝がパチパチと音を立てている。
彼の名前は天焔という。背の高い男で、目鼻立ちが尖っているからか、狐の様できつい印象をしている。
しかし、天焔は私の行動にいちいち反応しては小さく笑っていたのを見逃さなかった。その時の表情はきつい印象などではなく、嘘のように明るく優しく楽しそうな屈託のない笑顔だった。彼が徐庶と度々会って何かの役割を果たしているのは判っていたが、実際のところ何をやっているのかは聞いた事がなかった。私は声を掛けた。
「貴方は諜者でしょう?」
その言葉に驚いて天焔は眼を丸くして私を見つめる。少しその視線を外してから、考えている風だった。
「ええ…そんなものです」と返した。
「ずっと…この仕事を?」
「…はい、もう十年近くになります」
私の問いに、天焔は静かに答えて来た。
「そんなに長い時やっていたら大変でしょう?」
「いえ、大変だと思った事はほとんどありません」
返答には自信と誇りがあって、失敗は許されないという極度の緊張さえも天焔には無用かのように思えた。
「私には不思議なんだけど…。どうしてそこまで命を張っていられるのか。私の話は聞いた?」
「はい。ですから私には貴女の方こそ不思議でなりません。総べてを御存じのはずなのに、どうして私にお尋ねになるのでしょうか?」
天焔は心の中に幾らかの蟠りがあったのか、ぶつける様に言葉を吐き出した。
「私は未来を見通す事は出来ないし、知ってるのは大まかな事だけよ。個人情報が見えるのは仙人位のもんで、私は仙人でも何でもないわ」
「ですが、未来は決まっていて、その通りに動いているのではありませんか?貴女がその知識を利用すれば中原を手に入れる事も決して夢ではないでしょう。時折…力を持った人物がそういう力を使って世の中を変えようと試みています。黄巾党の張角も然り。曹操が知ったらさぞ手に入れたいでしょうね。あの男は今、猛烈に人材を欲しています」
「私に曹操の許へ行けというの?」
侮辱としか受け取れない言葉に私は思わず手に持って居た器の事など忘れて立ち上がった。中に入って居た粥が溢れて服に飛び散ったが、そんな事はお構い無しだった。地面に転がった器を見て、天焔は私の態度に慌てふためき、頭を深く下げた。
「申し訳ございません。今私が申し上げた事をどうぞお許し下さい。本心ではありません。…私は、どうしても知りたかったのです。貴女は…私共とは違いすぎます。打算的な事を考えておいでならば、何時か去ってしまわれるのではないかと…思いました」
「まさか。疑われても仕方ないけれど…私は自分自身で決めて新野に行くのよ」
「よく分かりました」
「どうして私にそんな事言ったの?私をわざと怒らせるつもりだったのね…。何故?徐殿の事?一体何でそんな心配しなければならないの?」
天焔は頭を下げたまま暫く黙りこくっていた。
「私はどうしても徐兄を助ける必要があります」
「それは見ていて判らなくもないけど…私を疑ってまで確かめるべき理由があるのなら理由を話して欲しいわ」
「話すと私が叱られます」
「話さないのは道理に反しているでしょう。悪いと思っているならきちんと説明するべきよ」
私は服に掛かった粥を拭き取り頭を下げる天焔を起こして、話すまでは新野に行かないと告げた。まずい事になったと観念したのか…天焔はしぶしぶ過去の出来事を口にし始めた。
「もう…二十年以上も昔の話しです。その頃私は此処からまだ北にありますが、穎川というところで、かなり阿漕な事をしていました。いわゆる金で人を殺める仕事です。若い私は、自分の腕が立つのを良い事に、数人の仲間と共に危ない橋も渡っていました。豪族の娘を興味本位に襲ったり、気に食わない者は理由も無く殺しました。私を殺そうとする侠士は沢山居て、役人にも追われていましたが、逃げる事も剣の腕も誰にも負けなかったのですから、誰が私を捕らえる事など出来るでしょう。あまりの横行に耐えられなくなったのか、穎川の侠士を雇った噂を耳にしました。安い金でも、正当な理由のある仕事は必ず請け負い遣り遂げるという噂でした。私にとって、今どきそんな侠気が何の足しになるだろう…そう鼻で笑い飛ばしたのです。誰に聞いてもその姿さえ知らず、噂話に尾鰭が付いているようでした。
きっとそんな輩など元々存在しなくて、黄巾党の乱で荒んだ街の英雄像が産んだ取って置きのホラ話に違い無いと思い込んでいました。ですが、私は確実に狙われていたのです。
いつものように仲間達と娘を攫おうとした時、私はふいにひとりの男に腕を斬り付けられました。生まれて初めての事です。私の腕前は剣の師より越えていて、嘗て、それも前から堂々と剣を降り下ろされる事などかつて経験した事はありません。その場は何とか逃げ果せましたが、恐怖に陥った私はこのままでは適わないと悟り、不本意ではありましたが腕利きの役人を多数買収して守備に付かせました。
古惚けた邸が我々仲間の住処で、其処は街並からは外れていたので人が滅多に通る所ではありませんでした。安堵していたはずが、どうやって探し出したのか男は独りで役人を躊躇いなく切った後に私に襲い掛かりました。今でも憶えています。月の出ていない真っ暗な夜の事です。外で秋の虫が涼やかに鳴いているのが聴こえていました。静かなその中で、男の眼だけが鋭く光っていて、長く細くうっすらと伸びる剣の刃が私の首を狙っていました。仲間達はもはや助ける術も無いと思ってか私を置いて皆逃げ出し戻っては来ませんでした。私は数回男と剣の打ち合いましたが、負ける!と初めて思いました。力強く鋭いまでに繰出される撃剣の技は冴えていて、私は戦きつつも何時の間にか心が踊っている事に気付きました。ここまで自分の思う通りに生きて来たのだから、同じ命を落とすのならば私より強い者に斬られる方がマシというものだ!と。刃がギリギリと重なって、お互いの身体が触れあう程接近した時、男はまじまじと私の顔を見つめている様でした。我を忘れ、男は一瞬棒立ちになったようで私がこの好機を逃すはずはありません。怪我を負いはしましたが、もはや戦意を失っている男を仕留めるなど容易な事でした。しかし…その時の私は生きる事が出来た喜びに有頂天になっていて、命を狙ったその男に屈辱的な気持ちを与えた返礼として殺す事よりも身柄を役人に引き渡したくなったのです。一晩の間にこれ程激しく血肉が湧き踊る事など後にも先にもないでしょう。男の顔もよく見てみたかった…と言うのが本心でした。
翌日、私は晴れ晴れとした気分で支柱に括り付けられている男の顔を拝みに行きました。公衆の面前に引き出され、立て札には名前を知らせた者に恩賞を与えると書いてあり、たくさんの人が囲んでいましたが、誰もその名を口にする者はいませんでした。私は大勢の人を掻き分けて近くで男の顔を覗き込みました。私と斬り合った時の血糊が固まり、その後役人から責めをうけたのでしょう。土と埃にまみれて服もあちこち破れていました。男はうっすらと眼をあけました。
その時、私は思い出したのです。
小さい頃にいつも遊んでくれた同郷の義兄の事を。
あの時の姿がだぶって離れないのです。
まさか?まさか…あの徐兄なのか?
「徐兄……?」
私の小さな声が耳に届いたのか、ゆっくりと私の方を見つめて、義兄は少しだけ笑っていました。直ぐに、私はあろう事かその場を逃げ出しました。どうしようもない程の後悔と罪悪の念が私の心に重くのしかかっていて、その場に居る勇気などありませんでした。あの笑みは、私と知り殺す事が出来ずに自分で総べてを冠っても辞さないという姿勢だったのです。
侠士であり仕事を請け負った以上、責務を果たさない事……これは許されるものではありません。しかし、徐兄の仕事で救われた者は感謝こそすれ、憎む者も届ける者も誰もいませんでした。
徐兄は直ぐに仲間達に助け出され、穎川を去りました。
…剣は、人を斬る為にあり、人を生かす道具では決してありません。そして、徐兄はきっぱりと足を洗い遊学したのです。私もそれからは心を入れ替えて、田舎に引きこもり畑を耕していました。徐兄のお陰で、私は年老いた母に孝行する事を憶えました。何よりもこうして私の命がつながり、生きていられるのは徐兄のお陰だと感謝しています。私は徐兄と再び会える事も許される事もないと…叶う事などないと思いました。
十年程の月日が流れ、賢人として私のところへやって来た徐兄は私に自分の仕事を手伝って欲しいと頼みに来たのです。私は今度こそ報いようと誓いました。それからはずっと今の仕事をしています。
前に、少しだけ話しを聴いた事があります。徐兄の母堂は血のつながらない康殿の母堂で、本当は義母にあたります。周囲が面白半分で噂を掻立てた事が原因で、傷付き信じる事が出来なくなり家を出てしまったのです。
『今思えば、何と馬鹿げた理由で家を出たのだろう。私は、もう二度と母堂に合わせる顔がないのだ……』
そう言ったなり自分の心を閉ざしてしまったかのようでした。
働いたお金を自分ではなく他の者に届けさせて、私も時々穎川の邸まで使いを頼まれる事があります。徐兄はもう二十年以上故郷へは帰っていないし…母堂にもお会いしていないのです」
そうして天焔は長い話のあと、少しだけ付け加えた。
「隣に居る男が恐ろしくなりましたか?」
「…いいえ…どれも過去の事なんでしょう?恐い眼なんてしていないし私は疑ったりしないわ。おやすみ」
私は話を掻き消すようにして用意していた布に包まった。これ以上話を続けられたら、悲しさで涙が止まらなくなりそうだったからだ。辛い話を聴くんじゃなかった。奥から沸き上がって来る感情は言い表わす事など出来ない位にどうしようもない程切なくて苦しかった。
天焔は少しだけ微笑みながら黙って炎を見つめて居た。夜は、静寂の中で更けていった。