Wanderer -1-

主要登場人物

▪︎ウォーズマン
 ロボ超人

▪︎正義超人
 キン肉マン・ロビンマスク・テリーマン・ブロッケンJr.・リキシマン

▪︎イワン・セルゲーエビッチ・ベルジャーエフ
 エボの婚約者

▪︎エボ・バシーリエブナ・メンデル
 ナテーラのひとり娘

▪︎ナテーラ・ダーニエブナ・メンデル
 ヴォロシーロフ夫婦を一時かくまった女性

▪︎リムスキィ・エイゼンシュテエビッチ・パブロフ
 科学アカデミーヤルツェボ支部長

▪︎マカール・デフォーエビッチ・ロドギエフ
 科学アカデミーヤルツェボ副支部長

▪︎マーフィルト
 科学アカデミーヤルツェボ支部の博士

▪︎アニーシャ・ナオーイエブナ・ヴォロシーロフ
 ウォーズマンの母?

▪︎シモン・バルゴーエビッチ・ヴォロシーロフ
 ウォーズマンの父?


 正義超人は、地球上が平和になったため、超人達の故郷である各国に散らばり、新たな道を歩み始める事となった。キン肉マンはマリを連れてキン肉星へ凱旋を果たす事になっていたし、テリーマンは自分の持つ牧場の経営を本格的に軌道に乗せるつもりでいた。ラーメンマンは中国での修行を再開する事に決めていたし、ブロッケンJr.はドイツへ戻って青少年の育成に全力を注ぐ予定を立てていた。ロビンマスクは英国の父親が残した城に一度落ち着いてから、新しく始めるジムとラグビー選手の両立を考えているようだ。ウォーズマンは、自分の目標が一段落着いた事を考えていた。
 日本の有名な豪華ホテルのホールを貸し切って超人達の祝賀会が催されている。きらびやかな部屋の装飾、天井からは総ガラスで出来た大きなシャンデリアが吊り下げられ、光りを演出した照明は部屋全体を取り囲むように光り輝いて、その場に居る超人達の姿を明るく照らしている。沢山の丸テーブルにはあふれんばかりにありとあらゆる無国籍な料理が並べられ、皆食べ物をつまみ酒を酌み交わして思い思いに語りあっていた。この趣向は流石キン肉マンのものだと誰もがそう思った。上座の舞台の上で、派手に演出された服を着たキン肉マンが一生懸命に今までの思い出話しから超人達との死闘の数々をマイク片手に熱く演説している。辺りはそのせいもあって興奮覚めやらぬ状態で賑をみせていた。その姿を遠くに見ながら、ホールの窓に隣接されたベランダの端にある窓辺で、ロビンマスクはワインを片手にたたずんでいた。窓の外はコンクリートのビルが立ち並び、ホッと一息つける情景ではなかったが、そこにはまぎれもない今の日本があった。そういえば……ウォーズマンはどうするつもりなのだろうとロビンマスクは思った。これから先の予定も何も彼から聴いていない。ソ連へ戻って、取れずにいた選手権のベルトを目指すつもりでいるのか。それならそれで彼の思うような調整に力を貸してもいい。一人の方がベストだというのであればラーメンマンのように修行に勤しむのも一つの道だ。どうにしろ一度尋ねてみよう。そう考えているところへウォーズマンがひょっこりと現われた。彼にしては珍しい正装で黒のタキシード姿だ。普段服装などに無頓着なせいかウォーズマンは度々ロビンマスクの度肝を抜かせる事があった。その度に何とも言えぬため息をついてみたものの、当の本人……ウォーズマンはそんな事を微塵も感じて等いない。そういう経緯でタキシード姿をロビンマスクがあまりにもしげしげと見つめるせいか、ウォーズマンは自分の着ている格好が可笑しいのか?かと思った。
「俺…何かまずい格好でもしてるのか?」
ウォーズマンの少し困った様子に首を横に振りながら、ロビンマスクは彼がまだ純粋な証拠だと感じずにはいられなかった。少し笑いながら申し訳なさそうに弁解をする。
「いや、悪い悪い……ずっと前の事を思い出しただけだ。おまえの正装は立派なもんだよ。それより、もうキン肉マンの話しは聴かないでいいのか?さっきはおまえと闘った頃を語っていただろう」
「ああ……いい加減恥ずかしくなって傍にいるのが嫌になったんだ。そのうち上がってこいと言われ兼ねないからな、立ち去るのが一番だ」
ウォーズマンは話しながら、他にもっと切り出したい事があるような素振りでロビンマスクの顔色を伺っている風だ。
「何か相談でもあるのか。ソワソワしてるようだが……」
ロビンマスクの問いに照れながら、ウォーズマンはポケットに入っていたエアメールを無造作に取り出して、表書きが見えるように差し出した。白い清楚な封筒にソ連の切手が貼ってあり、その郡の消印らしきスタンプが押してある。ロシア語で書かれたウォーズマンの宛先。
「実は、ソ連で結婚式があるんだが……一緒についてきてくれないか」
ウォーズマンから意外な頼みを受け、ロビンマスクは驚いた。個人的な願いごとを頼んでくる事など初めてだったからだ。一体誰の結婚式に招待されたのかロビンマスクは少しばかりの好奇心が湧いた。
「前、俺がソ連に会いに行ったナテーラさんの娘さんで……ほら親思いだって話ししてただろう。そのエボさんがイルクーツクで結婚するんだ」
ほう……と頷いたように、ロビンマスクは以前ウォーズマンがソ連へ人を訪ねていたことを思い出した。
「おまえに大切な写真をくれた人の娘さんか。確か、ナテーラさんは亡くなったと言ってたな」
一年前、ウォーズマンはエボの願いを叶えるため、母親のナテーラのいる病院を訪れていた。病気が重く限られた時間しか残っていない事を知っていたのか、ナテーラはどうしてもウォーズマンに会って昔の話しを伝えたかったのだ。その口から語られた事は、紛れもなくウォーズマンの両親との出会いに関する事だった。そして、ナテーラは大切に持っていた、たった一枚だけ手元に残っていたという写真をウォーズマンに手渡してくれたのだ。写真に写っている夫婦が、事実ウォーズマンの両親であったのか、今となっては調べようのない事だ。しかし、父親らしき男性の顔を覆っているマスクは誰が見てもウォーズマンのマスクそのものではないか?ナテーラがウォーズマンを呼んだ理由はそこにあった。
「いつなんだ?結婚式は」
ロビンマスクは静かに尋ねて笑った。
「ロビン……一緒に行ってくれるのか」
「祝ってあげようじゃないか。おまえの恩人なら尚更だ」
ウォーズマンは大喜びで師匠に抱きついた。
「なぁーにをコソコソ話しているんじゃ。ウォーズマンにも一言喋ってもらおうとしたらどっか行っとるし、捜し出したと思ったら二人で抱きあっとるとはのぅ」
いつの間にやって来たのか、冷たい視線を二人に向け、呆れたような口調でキン肉マンは呟いている。感極まってウォーズマンは思わずロビンマスクに甘えただけなのだろうが、その事を指摘され慌てて離れた後、必死で事の成り行きを説明した。
その話しを聴いたキン肉マンは不気味な程の満身の笑みを湛えてウォーズマンにゆっくりと詰め寄った。
「わしも行きたいのう」
「キン肉マンはキン肉星へ帰るんじゃないのか?」
「なぁーに、ソ連へ行ってから帰ったって構わないよ、ウォーズマン君。めったに行けんじゃろぅキャビアの国へなんて」
キン肉マンの言葉に唖然となっているウォーズマンは後ろから肩を叩かれた。振り返ると、正義超人の面々が微笑んで、先程のキン肉マンのようにじっと見つめて物言いたげな顔をしている。
「ウォーズマン……まさか俺達を置いて行こうなんて思ってないよな」
テリーマンがにこやかに呟いた。
「俺も本場のウォトカが飲んでみたいなぁ…きっと旨いんだろうなぁウォーズマンよ」 ブロッケンJr.もニヤニヤと笑いながら、ウォーズマンの頭を軽く音のする程度に小突いては、確認を取るように何度も繰り返した。
「仕方ないな」
諦め半分のウォーズマンをよそに、OKが取れて大喜びの正義超人達はまだまだ盛り上がりをみせる祝賀会の勢いもあって、誰が持って来たのかビールで祝いの乾杯を始めた。
 出発するにはまだ少し日数があったので、ウォーズマンは他の超人達と同様に、日本に滞在して余暇を過ごす事にした。彼等は自分の思い思いの目的地へ足を運んで、観光、スポーツ、ドライブ、ショッピングを楽しんだ。ウォーズマンは、用事があるというロビンマスクとは別行動を取りホテルの昼食を済ませてから、ひとりで街の散策に出てみることにした。陽は高く上ってジリジリと肌を差す。さっき聴いた話しでは、日本の時期は梅雨を迎えていて、雨の多い天気が続くはずなのだが、ここ一週間は高気圧のせいか雨は一滴も降っていないという事だった。街の中を見て回る方としてはどんよりとした曇空と大粒の雨が落ちる湿気た状態より有り難いかもしれない。雨は、ウォーズマンにとって嫌な思い出しか残してくれなかった。惨めさばかりが募った。
 ホテルのロビーを抜け正面玄関を出ると、大通りに面しているためか車の行き交う音が即座に耳へ入ってくる。自転車に乗った買い物途中の婦人達、ゆっくりと自分のペースで歩く老人に、軒を連ねた商店の主人らしき男と客が店先で大きな声を出し、品の売り買いをやっている。小さな愛玩犬に散歩用のリードを着けて歩く女性、幼児の手を引いて歩く母親と、ウォーズマンはソ連でも見かけられるような日本の何気ない風景を妙に懐かしい思いで眺めた。歩くうち、自分の周りに小学生位の男の子等がくっついて来るのに気付いた。大柄の超人が歩いているのに見過ごすはずもないだろう。ウォーズマンの辺りは何時の間にかTVで観た試合で観たと指を差す者や近寄って来て握手を求める人が増え始めた。超人オリンピックに出場してから後は、昔のように石を投げつけたり罵声を浴びせられ追い払われる事は無くなった。代わりに人が集まって来るようになったのだが、ウォーズマンにとっては前後のギャップが激しいせいか大勢の人に取り囲まれるのは苦手だ。嬉しい気持ちはあるが、相手にどう反応していいかよく解らないせいもあるし、照れくさくてどこかむず痒いような感じがした。自分の事を知っている人達が居るというのは、今此処で存在して居るという実感を与えてくれる。姿を認めて接して貰えるのは何よりも嬉しかった。体に受けた傷は癒えようとも心の奥に刻み込まれた傷はそう簡単に忘れ去る事は難しいが、辛い思いをしたからこそ、その分だけずっと願ったのだ……自分の価値を理解してくれる誰かを。
 ウォーズマンは差し出された手を出来る限り握りしめ、人の波をうまくすり抜けて、差し掛かった交差点の横断歩道が青にかわったのを幸いに素早く渡りきった。丁度、道を挟んだ横断歩道を幼い少女が駆け足で渡ろうとしているのが何気なく見えた。信号をよく見ていないのか速度を落とさず一台の車が少女に向かって猛スピードのまま突進しようとしているのが分かった。子供の母親だろう、事の成り行きに気付いて大声で叫び、走り寄ろうとした横断歩道までは30mはある。幼い少女は母親の叫びの意味がよく解らないのか、道の真ん中で立ち止まってしまった。間に合わない。ウォーズマンはとっさに飛び出し、車が急ブレーキを踏んだのと同時、少女を抱き上げてスリップしてきた車の前部ボンネットにうまく右片手をついてその反動で体制を整え、前に体をひねりながら宙を一回転して着地した。少女は訳がわからずきょとんとした顔をして、抱きしめているウォーズマンを見上げた。直ぐに駆け寄った母親は、ウォーズマンから子供を渡され、深く頭を下げて礼を述べる。びっくりした運転手が車を横づけして中から降りて来た。怪我は無かったのか尋ねて申し訳なさそうに詫びている。誰も外傷の無い事を知り、事故に至らなかった事でホッとため息をついた。少女はまるで何事もなかったかのようににっこりと笑ってウォーズマンの方を興味津々の様子で母親の後ろから覗き込んでいる。泣かずにいるこの少女が少しだけ立派に見え、思わず頭を撫でてあげた。嬉しそうにはにかんでいる姿は愛らしい。と、ウォーズマンは熱い視線を感じて自分の周りに目を向けた。一部始終を見守った人々が自分達の事のように安堵感を湛えて見入っているのだ。どこからともなく拍手が湧き起こりウォーズマンを称した。その情景が何とも恥ずかしくなって、母親が呼び止めているのも気付かないまま、ウォーズマンは横断歩道の脇から一気に駆け出した。追いかける訳にもいかず、母親は歩道を走り続けてどんどん見えなくなっていくウォーズマンの背中に微笑みながら感謝の気持ちを込めて深々とお辞儀をしていた。
 しばらく走ってから、入り組んだ道を通り人の行き来の少ない閑静な住宅街へ迷い込んだ。どの家もどこか上品で、美しい手入れの行き届いた庭には紫陽花や咲いており、耳を澄ませるとピアノの調べや犬の小さな吠えている声が聴こえて来た。青々と茂った木の葉が揺れる度にサラサラと優しい音がする。ひしめきあった風景なのに不思議な落ち着きのある場所だ。ゆっくりと歩いていくと鉄柵に囲まれた緑一杯の公園に出会した。体がギリギリ通るような小さい入り口を抜け、中を横切って反対にあたる道路を目指した。公園の内は意外にも大きな銀杏の木にはんてん木、低木ではけやきがきちんと間隔を開けて植えられている。足元は芝生で覆われて柔らかい感触が伝わってきた。突然、誰かの足音が耳に入った。歩き方からするとここら辺りの住民のものではなさそうだ。緊張しているのか早足のようだ。不思議な気持ちがしたが、つけられているようにも思えふいに立ち止まってみた。足音は一歩遅れて静かに止まった。ウォーズマンが歩き始めると又同じように音がした。何者だろうか……。そういえば祝賀会の席で同じソ連の超人から尋ねられた事があった。身辺を嗅ぎ回っている人物がいるから気をつけろとその超人は教えてくれた。何か知っている事があれば教えて欲しいと札束をちらつかせているというその人物が、何故ウォーズマンの事を調べているのか詳しくは語らないまま、尋ねる理由を聞かせるように問い詰めようとするとうやむやに言葉を濁して立ち去ったというのだ。ウォーズマンは今来たばかりの方へ向きなおって、足音のした柵の外に連なって建つ住宅の蔭に潜む人物に声を掛けた。
「おまえか?俺の周りをうろちょろしている奴っていうのは」
しばらく何の返答も返っては来なかったが、静まりかえった状況では動く事も出来ないと観念したのか、建物の隅からひとりの男がゆっくりとウォーズマンの方へ歩いて来た。全身を黒ずくめにして、この季節に不似合いな薄手ではあるがコートに帽子、大層にサングラスをかけている。痩せ型で身長は190cm程、歩幅の揃った姿勢の良い歩き方をして、落ち着きはらった姿に、ウォーズマンはとっさに警戒し男を見据えた。男はウォーズマンの近くまで歩みより立ち止まった。帽子で影になった、よく見えない顔に少し笑みを浮かべている。
「さっきの質問だが…」
男は静かに喋り始めた。
「あんたの言う通り調査している……それが私の任務なのでね。少し先で話すつもりだったが……いい機会だから、ここで話してしまおう」
理由が判らず、ウォーズマンは更に男に対して不信感をつのらせた。何か仕掛けて来るのではないかという気がした。用心に右手のベアークローを出し身構えた。その様子にびっくりして、男は突然緊張を解き声色を変えた。
「ちょっと待ってくれ。俺はあんたと戦うために来たわけじゃない。ある人物に頼まれたのさ。その人があんたに会いたがっているんでね、私と一緒に来て欲しいんだがね」
一変してウォーズマンの顔色を伺うように話す男の目はよく見えないが笑っているように取れた。
「どうして会う必要があるんだ?一体俺とどんな関係がある?」
「大いに関係ある事だと思うがね。あんたは自分の出生を考えた事は無かったのかね?ロボ超人として生まれた秘密がある事を。是非ともその話しを聴いて欲しいとその人はおっしゃっているんだよ。興味のある話しだろう」
男の話しを打ち消すように、ウォーズマンは無視してくるりと踵を返すと又歩き出した。引き留めるように男は尚も話しを続ける。
「どうしてだ?あんただって本当の事が知りたいだろう…父親、母親の事が全て解るんだぞ」
「そんな事を今更聴いたって俺がロボ超人である事は変わらない。俺はおまえやその話したがっているという人物から話しを聞くつもりはない」
ウォーズマンの言葉に男は声を上げ、最初から成り行きは判っているという風に肩で笑い始めた。
「やはり、すんなりとこちらの言う通りについて来てはもらえんようだな。まぁ……それも仕方あるまい。事を荒立てる気はないんだが、あんたの出方じゃ巻き添えが出てもいいって事のようだ。こちらとしても考えがある。ウォーズマン、あんたはどっちみちプロジェクトから逃げられざる運命なんだよ。気が向いたらこのメモまで来る事だ」
男はそう言って胸元から取り出した手帳にボールペンで文字を書き、破った物をウォーズマンの方までやって来て無理矢理胸板に押しつけてから、すぐさまそこを立ち去った。ウォーズマンはメモを見つめ、書いてあるロシア語の綴を読んだ。
Ялцево No.23 квNo.8
 ソ連へ出発する日となった。
 国際線の飛行機でロシア共和国極東部にあるハバロフクスまで行き、そこからは国際線に乗り換えてイルクーツクまで飛ぶという空の旅である。日本海を越えると、シベリアの大地が高度1万mを見下ろした遥か彼方まで広漠と続いている。タイガに覆われた山々が連なり、雄々しいレナ河がまるで地表に巨大な根を張ったように伸びているのだ。不定期な遅れもなく、約7時間掛かって目的地のイルクーツクに着いたのはもう夕方近い4時半も過ぎた頃だった。ソ連では短い夏の始まりを迎えていて、この時期は沢山の花が一斉に咲きみだれる。冬は4時間前後の昼しかないが、夏は打って変わって1日中夜のない白夜の世界が広がるのだ。
「全くっっっ、何時間乗ってりゃ気が済むんじゃい。お尻が痛くてかなわんぞい」
着陸した飛行機のタラップを降りながらキン肉マンはお尻をさすりつつぶつくさと文句を言い始めた。その後を歩いていたブロッケンJr.が釘を刺すように呟く。
「文句言ってる割には、おまえアテンダントに手間かけさせてたよなぁ。いいんだぜぇ、マリさんに全部話しても」
あたふたと首を横に振り、キン肉マンはまるで何事もなかったかのようにコホンと咳払いをして口笛を吹きごまかす。皆、その姿に大笑いをした。
 空港のターミナルに入り、検疫、入国審査を受け、税関を通りロビーへ進むと、ひとりの男性がウォーズマンの方へ近寄って来てウォーズマンに握手を求めて来た。背の丈は180cm程で少しほっそりした体型に栗毛色の髪をした男性だ。瞳は薄い水色、どちらかというと色白で白ロシア人の血を引いているようだ。
「ウォーズマンさん、ご足労かけます。わざわざイルクーツクまで来ていただいて」
「おめでとう、イワン」
ウォーズマンはそう言ってから、少し困ったように恐縮しながら自分の後ろを指差した。そこには、正義超人達がにこにこしながら立っているのだ。ロビンマスク、キン肉マン、テリーマン、ブロッケンJr.、リキシマンが手荷物を持って自分達の紹介を今か今かと待っている風だ。イワンは少し驚いたようだったが、とても大喜びで彼等の方へ掛け寄りひとりひとりに握手をして自己紹介をした。
「初めまして、僕はイワン・セルゲーエビッチ・ベルジャーエフです。祝って戴けるなんて本当に光栄です。遠い所を有り難う」
それにしても……とウォーズマンは思った。肝心の女性の姿が見えないのだ。
「イワン、エボさんは?」
その言葉を掻き消すようにイワンはそそくさと皆を案内し始める。ウォーズマンはてっきり2人で出迎えに来てくれるだろうと思っていたので、不思議な気持ちを抑えつつ、イワンの後をついて行った。空港の玄関を出て、脇に駐車し待たせていたイエロータクシーに数人に分かれて乗り込んだので、イワンは運転手に行き先はキーロフ広場の前に建つホテル・アンガラだと告げた。タクシーが次々と発車すると、反対車線に停めていた自分の車ジグリにウォーズマンだけを便乗させ、タクシーの後を追った。走り始めて一言もイワンは喋ろうとしない。困ったようにため息をつくのがウォーズマンに分かった。予定外の人数で押し掛けたせいだろうか?そんな事を考えてしまう程気まずい雰囲気が流れた。イワンはちらちらと横目でウォーズマンを見ている。さっきのエボの話しのときも変だった事を思い出し、訳を聞いてみようとイワンに尋ねた。イワンはどうしたものかと悩んでいるようだったが、思い切ってウォーズマンに打ち明けた。
「実は……エボがどこに居るのか全くわからないんです」
「え?まさか……」
ウォーズマンはイワンの話しに驚き、身を乗り出して事情を詳しく説明して欲しいと言った。
「一昨日の事です。仕事が終わって彼女とレーニン広場で待ち合わせをしていたんですが、エボがいつまでたっても来ないんです。どうしたんだろうと心配になってアパートに電話してみても出ないんですよ。職場の同僚の人は仕事先をいつもの時間に帰ったと言うし、気になってアパートの管理人に訳を説明して鍵を開けて貰ったんだけど……やっぱり帰ってないままで。どうしようもなくて僕が一度自分のアパートへ戻った時変な電話が掛かって来たんです。婚約者は預かっている……で切れてしまって。すぐに警察に捜索願いを頼んだけどそれっきり何の音沙汰も無いままなんです」
ウォーズマンはイワンに掛ける言葉を失った。それでも振り絞って言葉を並べた。
「何か手がかりになるようなものは?」
ウォーズマンの問いに首を横に振った。が、少しして思い出したのか、番号を答えた。
「そう言えば23&8と男が言ったんだけど」
「23&8?!」
ウォーズマンはその番号にまぎれもなく記憶があった。数日前に出会った謎の男のメモに書かれた番号に間違いない。気にも留めていなかった事だった。まさか、本当に外部の者に手を出す等、想像もつかない事だったのだ。
「ヤルチェボだ」
ウォーズマンはそう呟いた。
「ヤルチェボ?」
「イワン……エボさんは俺の為に連れ去られたのかもしれない」
イワンは思わず急ブレーキを踏む程びっくりしてしまった。後ろの車も急停車して、驚きを隠せない状態で窓から顔を出し、大声でイワンの運転をなじっている。
「どういう事ですか、ウォーズマン」
「はっきりした事は俺も判らないんだが、とにかく今からすぐに彼女を連れ戻してくる」
ウォーズマンの話しがよく理解出来ず、イワンは頭の中がパニックと化した。姿を消してしまった花嫁の安否にただでさえ夜も一睡も出来ない程だった。彼の両親も早くに亡くなっていたし、エボの父親は木材の仕事に従事していたのだが、エボが幼い頃に雪崩で命を落としたという話しだった。母親のナテーラは山暮らしを辞め、イルクーツクでエボとふたりで暮らしながら働き始めた。無理をしたせいかとうとうエボの花嫁姿を見る事もなく逝ってしまったのだ。こんな時、一緒に心配してくれる身内が居ないのはイワンにとって何よりも寂しい事だった。ネットワークを通じても情報は何一つ収集出来ず、ウォーズマンの言葉はイワンにとって例えようもないショックで怒りさえこみ上げた。
「どうして貴方とエボが関係あるんですか」
イワンの問いにウォーズマンは日本で出会った謎の男の話しを打ち明けた。手渡された住所の書いてあるメモのナンバーがイワンに告げられたナンバーと一緒である事も。話し終えた後もイワンは何も喋らず、ハンドルを握りしめたまま俯いていた。
「俺のせいでとんだ迷惑を掛けてしまった……すまないイワン」
そう言って、ウォーズマンは車のドアを開け外へ出て窓越しに話しかけた。
「明後日の結婚式には絶対間に合に合わせるから心配せずに待っててくれ」
「ウォーズマン、本気で行くつもりなんですか?まさか言っている人間が本当にやったとは限らないじゃないですか。警察に任せた方がいいんじゃないですか。それに正義超人の皆さんは祝う為に来てくれたのに……」
しかしウォーズマンは警察に任せたところで上手くいくとも思えなかった。
「大丈夫だ。皆んなにはうまく言っておいてくれないか」
「ウォーズマン!」
イワンが止めるのも聞かず、ウォーズマンは夕刻の陽の沈みかけた空へ飛び立った。道路は停車しているジグリの車を面倒くさそうにたくさんの車が避けて通っている。イワンはウォーズマンの姿が遠く見みえなくなってもなお、見つめ続けていた。
 ヤルツェボはエニセイ河の上流に位置する人口10万人に満たない都市である。西側は西シベリア平原に囲まれ、東側は中央シベリア高原の広がる境にあり、主に森林資源を軸とした林業で栄えた所だ。シベリア鉄道に連なる大都市から離れているせいか、大きな市街地や活気とはかけ離れている。更に一歩街を離れ郊外へ足を踏み入れるとそこには広々とした湿地帯が広がり、青々と茂ったステップの海が果てしなく大地を包みこむという情景を目にする事が出来る。
 朝焼けが一台のトラックを明るく照らしている。夜も走り通しだったトラックの背には山積みの石炭を輸送していた。道路には、このトラック以外には一台も走る車さえいない。朝が早い為、まだ誰も道を使っていないのだと運転手は話しながら、エニセイ河の見える河沿いの道路の端にゆっくりと車を止める。
「有り難う」
ウォーズマンは礼を述べて、トラックに便乗させてくれた運転手に微笑んで車から降りた。運転手はニヤリと笑い片手を上げて応えた。トラックは又走り出した。クラクションが2度、朝の澄み切った中で高く深く響いた。
 ヤルツェボの街へ入り、人づてに目的地の住所を探し始める。メモに書かれたナンバーの住所は街から離れた山の中にある事が分かり、ウォーズマンは山の中へと続く一本道を辿った。小さな自家用車が2台すれすれに通る位の道幅で、その道を取り囲む針葉高木はスラリと伸び潅木の茂みはからみあい鬱蒼としている。ところどころで小鳥のさえずりが聞こえてきた。曲がりくねった道と針葉高木の林を抜け白樺の林を過ぎた。その木々の間から、コンクリート造りの建物が幾つも姿を現せる。なお道を進むと、長いブロック塀に大きな木で出来た頑丈そうな門とゲートがあったが、ゲートの棒は上に上げされ、人が通る位に門は開いていた。監視する人の姿も見えないので、ウォーズマンは躊躇いもなく門の中に入った。奥にズラリと並ぶ建造物も人の気配は感じられず、しんと静まりかえって不気味だ。建物には入口が見つからず、奥の方へ進もうとした時、一番手前の建物の5m近い位の大きなドアが静かに音もなくゆっくりと開いた。まるでウォーズマンを待ちかまえたかのように。ドアの中は真っ暗で明かりは無く、内部に何があるのかは判らない。
 ウォーズマンは思い切って中に踏み込む事にした。建物の中は何も置いている風でもなし、がらんとしているようだ。すると、段々はっきりとし始めた。天井を見上げると、水銀灯から光が漏れて来て次第にまわりがはっきりと見え出した。よくよく見渡すと、左側に2階に通じる階段があり、ドアがある。突然ドアが開き、鉄骨で組み上げた階段を自分の方へ降りて来る誰かがいた。近づく程に顔形がはっきりとしてきた。ウォーズマンはとっさに身構えた。男……は医者が着ているような白衣を身につけ、とてもにこやかな笑顔でウォーズマンに握手を求めてきた。どんな出迎えを受けるのか不可測だったのに、緊張していた糸がいっぺんで解けたような気がした。
「やぁよく来たねウォーズマン。やはり来てくれると思っていたよ」
なおも男は笑っている。スキンヘッドの頭に似合わず伸ばした鼻の下の髭は歳の割には白髪の混じっていない赤茶色だ。年齢は60歳近いだろうか。笑って見せてはいるが、眉間に刻まれた皺は気難しい気性を表しているような印象を受けた。
「エボをどこへやったんだ?俺が目的なんだろう、彼女は関係ない事だ、早く解放しろ!」
「そう怒鳴られてばかりでは答えられんよ、ウォーズマン。まず、私の自己紹介をしておこう。私は科学アカデミーヤルツェボ支部の副支部長マーカル・デフォーエビッチ・ロドギエフだ」
「そんなに偉い人物が俺に何の用だ」
ウォーズマンはロドギエフを睨みつけたが、ロドギエフは目を合わせないばかりか、何とも答えないまま振り返って歩き始め、ある一点を指差した。
「私についてくれば判る」
水銀灯はようやく建物の中全体を明るく照らした。コンクリートの壁は冷たく映り、そこにあったのはベルトコンベア、リフト等の運搬用の機械が置いてあるだけで、階段の他は何も見当たらない。ロドギエフは自分の目線あたりの何もないコンクリートの壁を軽く叩いた。壁が20cm四方に開くと奥に細かいスイッチがあり、手慣れた順番に押していく。手前の床が大きく割れ中から地下へ下る階段が現れた。
「さぁ降りるんだ」
ロドギエフはウォーズマンに地下へ行く事を強要する。静かだがその言葉の裏にはまぎれもなく企みがあって、エボはきっとこの下にいるに違いないと感じた。右手に力を込める。すぐに闘えるよう、動けるよう細心の注意を払う。階段は長くなかったが下まで降りて、前に見えた光景に驚きのあまり声も出せなくなった。前方には、薄暗いぼんやりとついた明かりに映し出された不可思議な形をした保育器のようなカプセルが限りなく並べてあり、数にして数千…いや1万個はあるかもしれない。カプセルから幾つものチューブが配線と一緒に伸びて、奥にある一頻り大きなコンピューターに直結しているようだ。ところどころに見える計器は、何も入っていないカプセルの住人をいまかいまかと待っているように針が小さく小刻みに動いている。この空間は何だ?ウォーズマンはおぞましさと威圧感を感じた。この機械は一体何の為にあるんだ?時々鈍い音を立てながら一定間隔で赤く光るランプ。右端には全ての機械を操作するためのプログラムが組み込まれたコンピューターが作動の準備に入るよう立ち上げられたのか、高速処理を行っているような機械音がウォーズマンの耳に聞こえた。
「凄いだろう。これのほとんどは28年前に完成していたのだ。これを造るために……私がどれ程の力を注いだと思うかね?それは君が考えている程簡単ではなかった。なのに……失敗した。
28年前はとんだ大失敗をしてファイルともども失ってしまったのだ。だから、私は今度こそ完成させる」
ロドギエフは自信たっぷりに話した。やはり、笑いながら……。
「俺はあんたの話しを聞きに来た訳じゃないんだ。エボはどこにいる。早くしろ」
ウォーズマンは焦っていた。何故か嫌な予感がしていた。早くこの施設から離れたほうがいい。
「あのお嬢さんなら大切に預かっているよ。ついて来るといい」
ロドギエフの後をついて左横にある調整室のような一室に入った。部屋には何もなく、中ほどでライフル構えた白衣の男達が4人、椅子に座らせられ縄でぐるぐる巻きにされたエボに銃口を向けて立っている。エボはドアの開く音にぐったりとしていた顔を上げ、ウォーズマンの姿を見て思わず叫んだ。必死で我慢していたに違いない、涙が止めどなく溢れている。ウォーズマンが彼女に近付こうとして、男達は容赦なくエボのこめかみに銃を押しつけた。
「おまえ達一体何が目的だ!」
ウォーズマンはベアークローを装着した。
「変な気を起こしたらこのお嬢さんの命はないと思え。殺す事など簡単だ。なぁに……ウォーズマン、君が我々の要求を黙ってのんでくれさえすればお嬢さんはイルクーツクに無事届けさせよう。難しい事ではないだろう?」
ロドギエフはまるで弄ぶような口調で選択する余地のない事を告げる。
「ウォーズマン!この人達変な事企んでるわ。言いなりにならないでっ!」
エボの叫びに男のひとりが余計な事を言うなとばかりに彼女の頬をライフルの柄先で殴りつけた。エボは気を失いぐったりと頭を垂れた。
「エボッ。何て事するんだ。この人を放せ。何故関係ない人を巻き込むんだ」
4人のうちの3人がウォーズマンの後に回ったが、ウォーズマンは撥ね除けた。
「いいのか?君が我々のいう事を聞かなければこのお嬢さんはイルクーツクへは帰れないのだぞ。可哀想に……結婚式を挙げる予定というじゃないか。全く関係無い人を巻き込んで、ウォーズマンは胸が痛まんというのかね?」
ウォーズマンはガックリと項垂れ手を暴れぬよう取り押さえられた。ロドギエフは横のカーテンを思いきりはぐると、手術台の用な寝台を取り囲むように器具と別の台には磨かれたメスが明かりに反射してギラギラ光っている。心拍計、のこぎり、手術に必要なありとあらゆる器具が揃えてある。ウォーズマンは台に無理矢理に仰向けに寝せられ手足を太い革のバンドで縛り上げられ、まるっきり動けなくなった。真上を見ると手術用の照明が煌々と体全体を照らす。ロドギエフは自由のきかなくなったウォーズマンを上から覗き込んでから機械のスイッチをONに入れた。最新鋭のコンピューターが壁から姿を現し、次々と作動して行く。ウォーズマンは必死にもがいたがびくともしない。それをロドギエフは嬉しそうに見つめた。
「ウォーズマン……ソ連は無敵の超人軍団を自分達の手で造り上げる事を最終目的としていたのだ。それがどういう事か判るかね?つまり、国の為にのみ動き、働く生き物を造ろうとしたんだよ。君の父親はそのプロジェクトの実験体だった。君もまたその結果として生まれてきたんだ。その父親で無し得なかったプロジェクトを、今度は君に購って貰う」
まるで獲物を捕まえた獣のように瞳を爛々と輝かせコンピューターを操作していった。自分の研究の為ならどんな犠牲も厭わないという位に、頭の中はプロジェクトの事で一杯のようだ。ウォーズマンは仰向けになったまま必死でエボの方を見た。彼女はぐったりとした状態でまだ意識を取り戻していない。なおも手足に力を入れてみるがバンドは全くびくりともしなかった。細かい操作を終えたロドギエフは、ウォーズマンがこの後どうなるのか本人も知るべきだと言い出した。
「君は今から新しい超人を造り出す為の両性生殖の配偶子の役目を担ってもらう。それには、そのままの体でいても意味がないのでね。このプロジェクトから一生逃げ出せないよう両手両足を切断して溶液の中で過ごして貰う。心配はしなくとも痛くはないし、意識もなくなる」
「狂ってる……あんたは自分が何をしようとしているのか判っているのか?」
その言葉にロドギエフは高笑いした。抵抗さえ出来ないウォーズマンに何を言われたところで痛くも痒くもないと言いたいらしい。エボを無事に連れ帰ると約束したというのに、不覚だった。彼女の身の危険さえ守ってあげれないとは……。ウォーズマンは呆然となり良い知恵が浮かぶどころか意識が遠のきそうな感覚に陥っていた。ふと、頭の中を父親という言葉が過ぎった。執着のない言葉。縁のない自分には無関係な単語。1年前、ナテーラから話しを聴くまでは、両親はこんな姿の自分が嫌で何処かへ置いていかれてしまったと信じていた。受け入れたくない真実でも、ウォーズマンには、両親と過ごした記憶が無い。たったひとつもセーブされていないのだ。誰もが積み重ね育んでいるのに、積み重ねる境遇は存在しなかった。
 ロドギエフは多少の良心があるのか、助手として手伝っているひとりにウォーズマンに麻酔を打つよう指示した。注射器に薬液を注入して全身に打とうとウォーズマンの方に近付いて来た時の事だ。ドアが突然開けられ、白衣を纏った男がロドギエフにつかつかと歩み寄った。その姿を見るなりロドギエフは驚いて手の動きが止まり一歩後退った。
「ロドギエフ……おまえは何をしているんだ?私が留守だったのを良い事に勝手な事をするんじゃない!」
「勝手な事ですと?パブロフ博士、やっとウォーズマンを捕らえてこのプロジェクトを再開する手筈が整ったというのに貴方は何を言うんだ。ご存知の筈だ、ソ連が望んでいる事ではないですか。ソ連はどこの国にも負けない力を持てるのですぞ。どうして指示を下さないのか……私が変わりにやって問題がある訳でもありますまい」
「このまま無許可で続けると言うなら、私もそれなりの処置を取らせてもらう。いいんだな」
パブロフの威儀ある言葉にロドギエフは仕方無さそうに顎でバンドを解く様指示した。男達はしぶしぶウォーズマンの手足を締め付けているバンドを外し始めた。悔しそうに舌打ちするロドギエフはそれ以上何も言えないまま、直ぐに男達4人を連れその場を出て行った。ウォーズマンがエボの元へ掛け寄り、縄を外してまだ意識を失った彼女を抱き上げたところでパブロフはウォーズマンに声を掛けた。
「その娘さんを連れて私の家に来なさい。手当しよう」
機械の工場を抜け階段をゆっくり登りながら、パブロフは喋り始めた。
「部下が大変申し訳ない事をした。あの男は研究熱心なのだが物事の善し悪しには欠けている。迷惑をかけたね。ところで、私はこのヤルツェボ支部の支部長のリムスキィ・エイゼンシュテエビッチ・パブロフだ。宜しく、ウォーズマン君」
パブロフから差し出された手にウォーズマンは応えなかった。とても信用できるとは思えなかった。パブロフは苦笑いしながら手を引っ込めた。
「信用されないのも無理はない。だが、二度とこういう失態はさせんよ。あの男もここがどれだけ研究に没頭出来る機関かよく判ってはいる筈だ。……心配かね?」
「こんな手の込んだ誘拐をしておいて、謝れば全て終わるなら心配はしません。この人は明日結婚式を控えているんです」
「君の相手なのか?」
パブロフの突然の質問にウォーズマンは慌てて否定した。
「まさか……エボは俺に両親の写真をくれた人の娘さんで、結婚相手はイルクーツクにいてとても心配しているんです」
ウォーズマンの言葉に少し残念そうに、そして申し訳なさそうにパブロフは話しを続ける。
  「手を伸ばして悪辣なやり方であちこちに迷惑をかけているようだな」

 外に出て、同じコンクリートの建物が並ぶ場を後にすると、白樺の林の中に点在する丸太小屋が見えてきた。シベリア特有のこの小屋は石やコンクリートが割れる寒さでもびくともしない。風貌は質素で丸太を積み上げただけのものだが、唯一窓枠は細かい木彫入りで青く塗られているのが伝統だ。小屋の一つに案内され、玄関の前の階段を上がって中へ入った。薄暗くこじんまりとした内部は、2部屋で仕切られ、手前の今いる部屋は周り一面本棚が並び、たくさんの書物が立ててある。他に見あたるのは大きな机。色々な書類が山積みとなって机の上を陣取っているようだ。窓際には黒いレザーのソファーが年季の入った木のテーブルを挟んで置いてある。
  「奥にベッドがある。そこに寝かせなさい。薬を持って来る」
  パブロフに言われた通り奥の部屋へ歩いて行った。ゆっくりとエボをベッドの上に下ろす。パブロフが薬箱を持ってきて、エボの紫色に内出血した頬に軟膏を擦り込んだ。ウォーズマンは寝室らしい部屋をぐるりと見回した。ベッドの脇のチェストの上に置いてある写真立てに自然に目が行った。中には若い娘で20歳に満たない位に見える女性の写真が飾ってあった。にっこりと微笑んでいる姿は明るく誰が見てもほほえましい。
  「娘さんですか?」
  ウォーズマンの問いにパブロフはその写真立てを懐かしそうに見つめた。
  「いや……これは姉なんだよ。私のたったひとりの姉だった。彼女はある日、見知らぬ若者と恋に落ち、両親も弟の私も捨てて家を飛び出したんだ」
  パブロフの意外な話しをウォーズマンは言葉もなく黙って聴いた。
  「そして、その後ひとり男の子をもうけたんだが……死んでしまった。馬鹿だよ、夫婦して死んでしまって男の子も死んだ……いや君にこんな話しをしても仕方ない事だだね。ウォーズマン君、お茶でも入れよう。しばらく休んでから帰りなさい」
  ストーブで沸かしたお湯をティーポットに注ぎ入れ、ストロベリーのジャムの入った器を添えてテーブルに運んだ。青い模様の入ったティーカップによく蒸らした紅茶が湯気を立てて注がれる。琥珀色の美しい紅茶のかぐわしい香りが辺りにたち込めた。缶を取り出し、中からチョコ・バタークッキーを皿に盛って食べるようにも勧めてくれた。詫びのつもりの心遣いなのか、パブロフが今精一杯出来る事を自分にやってくれているという気持ちは理解出来た。お茶を飲みながらウォーズマンは考えていた。さっきのロドギエフが父親の事を知っていたのならば、このパブロフも同じように全てを知っているのかもしれない。ウォーズマンは自分の出生については何も聴くまいと思っていた。ナテーラが話してくれた両親の話しで十分だと心に言い聞かせていたのだ。だが、父親が実験体だったと聴かされて一陣の風がその心の中に吹き込んだ。風は揺らぎを起こして平々淡々としていた地表をゆっくり動かし始める。じっとしていられないほどの反復は興味と謎を呼び覚ました。このパブロフならば、全てを見ていたかもしれない。どんな事が父親の身に起こり、何があったのか事実を話してくれるのではないか……。しかし、尋ねる事はいともたやすいが、耳にして聴かねば良かったと後悔してしまったとしたら取り返しがきかなくなるのではないだろうか。頭にこびりついてしまった事を忘れる事は容易ではないのだ。幾ら考えてみたところで、それは真実ではなく妄想でしかない。とうとう耐えきれなくなって、ウォーズマンはパブロフに尋ねた。

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