古城
男は朝早くから日が暮れるまで働いた。広くはないが、義父が切り開いて作った畑を耕してこれを糧として暮らしていた。
男には女房と息子が一人居た。息子は今年二つとなり、ひとつひとつの言葉を憶えては色々な事を話して男を喜ばせた。暮らしは楽ではなかったが、ささやかな幸せを感じる毎日を過ごしていた。
男は肌の色浅黒く巨漢で筋骨隆々ではあったが、両足の骨を折って以降は素早く駆ける事が出来なくなっていた。
実は今居る場所が生まれ故郷でない事は知っていたが、男はここ五年程の記憶を失っていた。怪我をして倒れているのを見つけた女が、その時まだ生きていた父親と共に男を家まで必死で運んで帰り手厚く介抱した。その甲斐あって男は傷が癒えた。しかし記憶を失っていた為に帰る場所が分からず、足を悪くした事もあってその家で畑を耕す手伝いをするうちに自分を助けてくれた女を女房としてそのままこの土地に居着いていた。皆で仲良く暮らしていたが、義父は病には勝てず去年とうとう亡くなっていた。
秋も深まった頃、陽も落ちて家に火が灯り夕飯を食べる頃合いになったので、男はひとりで土遊びをしていた息子を連れて帰ろうと家の手前にある大きな樟樹の見えるところまでゆっくりと歩いて来た。すると木の向こう側で、息子が何やら大喜びしてしきりに何かを言っているのが聞こえて来た。何を言っているのだろう……と思わず子供の居る木の反対側を見ようとすると、そこにまぎれもなく人影がチラチラと見えた。誰か怪しい者がいるのでは?と驚いて子供の傍へ行くとそこには誰も居なかった。変だなぁ?と首をかしげながら男は子供に誰と話していたのだ?と尋ねると、息子は髯のおじさんと遊んだと言う。しかし男が見た時には誰も居なかったので、遠くそびえる神農架の仙人が来たのかもしれないと考え、息子をそのまま肩車して家の中に入った。
しかし、それが毎夕一週間も続いた。こうも毎日続くとさすがの男も変だと気が付く。おかしな事もあるものだとこの一週間続いた経緯を女房に話すと、女房は何かを思い出したらしく鍋から雑炊を器に入れようとしていた手が急に止まった。急に手を止めてどうしたのだろうと思っていると、女房は直ぐに何も無かったように再び雑炊を盛って男に手渡した。
その夜、男は妙に気になって寝付けずに居た。自分が何か大切な事を忘れている様な気がして来てならなかったが、何も思い出せない。夕食時の女房の態度も気になっていたが聞く事も出来なかった。そもそも自分は誰なのだろうか?何処の誰かはっきりと分かれば、女房子供にもっと美味しいものを食べさせ幸せに出来るかもしれないと考えた。寝返りばかりでどうにも寝付けない。この五年間、自分が本当は誰なのか?と問う必要さえなかったのに、不思議な位に気になり始めていた。同じように眠れずにいた女房は隣でじっと見守っていた。
夜中となって、とうとう我慢が出来ず男は布団からガバリと起き出して、戸を開けて寒々としてきた夜風に当たりながら土の上に腰掛けていた。
ふと気配がして後ろを振り向くと、女房が手に何やら持ってやって来たのが分かった。今までどうしても見せる勇気がなく納屋に見つからないように隠していたと告げて頭を下げて詫び、よく見ると頬には既に涙がぽろぽろと伝っている。男は差し出された物を月明かりで見つめた。それは兜であった。兜には血らしき塊があちこちにこびりついている。月の光に照らされる兜をじっと見つめていた男に、女房はここから五里程歩いた先に古城があると悲しそうに呟いた。五年程前にそこで戦があったとも言った。
男は突然思い出した、全てを。主の死の知らせを聞いて仲間と共に城壁から一気に飛び降りた事を!
記憶を失っていた事とはいえ、死ねずに五年もの間おめおめとこの世に長らえて来た恥ずかしい思いと切ない気持ちで全身が震え始めた。
家の中に入って身支度を整え、五年の歳月を共に暮らした女房に別れを告げ、まだすやすやと眠っている息子の顔を見つめたのち夜が空け白みかける中を古城目指して歩き出した。
女房は助けた時既に男が誰であるのかを知っていたので、黙って出て行く姿を見つめる事しか出来なかった。
古城へ向かう道は決して険しい道ではなかったが、足を痛めた身の上では容易には進めなかった。ゆっくり一歩一歩を踏みしめる。歩いて進む間に、女房と義父の優しさを思い出しては心が痛んでいた。
古城の傍に来た時にはすっかりと日も暮れていた。丘の上に建てられ暗い中で見上げると城壁が微かに浮かぶのがかろうじて見えるだけだが、五年前の事が走馬灯のように思い出される。季節も丁度草も枯れかけてもの佗しいこの時期の事だった。主人は荊州を奪われ惨敗し、とうとう崩れかかったこの古城に追い立てられた。救援を求めに走った者も戻らず途方に暮れた折、囲まれた中で手薄な場を見て少しの人数で突破しようと話し合った。男は城を守る為に残った。しかし敵の仕組んだ罠に掛かり主は捕らえられ斬首された。逃げ帰った兵からその事を聞かされた時の憤りが、今まさに心の中に溢れんばかりによみがえって来て胸を締め付けていた。
その時突然一陣の生温かい風が吹いて来た。おや?と異変に気が付いて空を見上げると薄暗くなった夜空に怪しげな姿がゆっくりと浮かんできた。見入るとそれは赤毛の立派な馬に乗ったまぎれもない自分の主であった。隣には主の息子が控えている。懐旧と畏敬の念にかられて涙をドッとこぼし、くちゃくちゃになった顔のまま頭を土に思いっきり付け、自分だけが生き残っている事を深く深く詫び続けた。しかし主は怒るどころか男に顔を上げるように諭して、城壁途中に引っかかり敵に見つからぬまま唸っていた姿を哀れみ遠い自宅まで担いで帰った者への義を貫くよう諭した。既に義兄も義弟も自分を陥れた宿敵もこの世には居らず儂の恨みもない。課せられた自分の生を全うする事のみ……そう言って静かに消え去った。
長い間土の上に伏して居たが、男が土まみれの顔をゆっくりと持ち上げると彼は誰時の空が広がっていた。しばらくの間丘の上の古城を名残惜しげに見つめていたが、男は身震いした後思いを断ち切るように古城を背にし振り返ることはなかった。東雲の空の下、女房と息子が待つ家へと再び歩き出した。