「敬哀、何故其方は苔の鉢を沢山揃えてさせては、時おり見つめて撫でているのだ?」
「どうしてここへ?」
 驚いたように敬哀は目の前に立ち尽くす者を見入っていた。そこに立っていたのは夫の劉禅皇帝。
 いつの間にか宮中の庭の一角には、青磁や緑釉等の陶器で出来た植木鉢に植えられた苔ばかりが幾数十も集められ絵も言われぬ光景となっていた。敬哀が植木を扱える職人に奇麗に形を整えひとつひとつ植替えさせたものだった。こじんまりしたものや、中には大きく見事な褐釉壷の上に作られたものもあった。
宮中の庭を廊下越しから覗いてもほとんどの者は気づかないが、庭に降りて建物の陰になる場所へ回れば苔の鉢植えがずらりと並んでいるのがよく分かった。
「其方の姿が何処にも見えぬので侍女に尋ねるが、最初は秘密だとどうしても話してくれないので問いつめたら教えてくれた。だからここへ来てみたのだ」
「まぁ、そうでしたの」
「朕に内緒でこのような収集をやっていたとは思わなかったぞ」
「だって……地味な苔ばかりですもの」
「どうして苔なのだ?美しい花は山のようにあるではないか。倭の国から珍しい花を取り寄せてやろう。……その話は後でいい……体が弱いのだからそろそろ部屋へ戻ったらどうだ?皇后は体を労らず言う事を聞いてくれぬと侍女達も心配しておったぞ」
「ご心配おかけして申し訳ございません。でも、私は花は要りません。苔がいいのです。私は父が大好きでした。とっても乱暴者で下の者には直ぐ怒って怒鳴り散らすような人でしたが、私には何時も優しい父でした」
「おお、そうじゃ。朕も覚えておる。小さい頃から義父上は私がひ弱だからと首元を引っ張って剣術の稽古につき合わされた事が何度もあった。全くというほど上手くならずにそれはそれは怒られた。皇太子だからと止める周囲を振り払ってでも稽古をさせられた。あのような事を言ってくれる者は他にはおらぬ」
「そういう事があったのですか」
「今となっては懐かしい思い出だ」
劉禅は敬哀の手を取って、階段を少しずつ上りながら昔の事を思い出して話した。
「私が宮中に上がる前の日の事です」
敬哀は懐かしそうに振り返って、苔の鉢植えの方を見つめた。

「小さい頃の話し………お前は覚えているか?」 と、張飛は明日は自分の許から離れて行ってしまう愛娘を愛おしそうに見つめて笑いながら敬哀に尋ねた。
「え?何を?」
敬哀は不思議そうに答えた。
「俺は何時も戦に出掛けて家を留守にする事がちょくちょくで、お前は俺が出掛ける時は何時も泣きじゃくっていた。母さんは父親っこのお前にはホトホト手を焼いていた。久し振りに戻って来てお前を抱きしめたらお前は俺の髯のチクチクするのが妙に好きで、よく顔をくっ付けたり触っていたよなぁ。苔の話を覚えているか?」
「苔の話?何?それ。覚えていないわ。昔の事だもの」
「なんだ……覚えていないのか?」
張飛は少しガッカリしたが、では話してやろうと意気込んだ。
「ある日小さかったお前は夜中に用を足しに家の外へ出た。しかし寝ぼけて庭の方へ行ってしまったんだろう。それから毎日夜中に起き出して外に出るようになった。
挙げ句に『何でお父様は何時もこんな時間じゃないと帰って来ないの?お父様は朝になると何時もいないのはどうして?』と毎日尋ねるお前の言っている意味が全然分からなくて、母さんは夜からずっとお前の様子を見ていたそうだ。そうしたら、お前は家の庭に生えていた人の顔くらい有る飛び出た大きな苔の固まりが丁度顔に当たって、俺の髯だと思って夜中になると寝床を抜け出して話しかけていたそうだ。夜中になったら俺に会えると思っていたんだろうな」
張飛は父親としての喜びを噛み締めるように笑っていた。

 「母はその時の事等とっくに忘れていましたが父は覚えていて、傍に居ない事を申し分けかった申し訳なかったと何度も言いました。伯父様が亡くなって、その仇討ちに出掛けると張り切って『今度も留守にしてしまうから又会えなくなるなぁ』と私に言っていた矢先に亡くなってしまいました。だから、こうして目を閉じて苔を触っていると、まだ父が生きているような気持ちになるのです。私……変ですか?」
「いいや……其方らしくて良いではないか。義父上は本当に立派な虎髯をお持ちであったな。久し振りに叔父上達の話等もしたくなった。さあさあ、その鉢を幾つか部屋へ運ばせるから、早く部屋へ戻っておくれ」
「よろしいのですか?」
「其方が望むのなら、好きなようにするがよい。其方が元気になってくれるのならば幾つでも構わぬ。其方は何も言わぬが肩身の狭い思いをしているのを私は知っている。宮中は広い故、其方の気持ち等考えずに酷い事を吹聴する者達もおる。天からの授かりものの事、人力の及ばぬ事もある。何も気にしなくてよい。気にし過ぎて心の臓を煩ったに違いないのだ。又元気になって共に出掛けよう。私は其方が好きだ。親達が決めた縁であったとはいえ、本当に愛おしく思っておる」
「嬉しいですわ……」
敬哀は、はにかみながら劉禅を嬉しそうに見つめる。
「私がよく知る信頼出来る者は一人二人と居なくなり、一番頼りにしていた孔明も亡くなってしまった。もう其方ひとりなのだ。私の事を良く知る者は、其方一人しか居らぬ」
「そんな事はございません。皆皇帝陛下に忠義を尽くして国を守ろうと必死に戦い頑張っております。どうか、この後も民を大切にし、この蜀の国を永遠に太平の世とされて下さいませ。それが出来るのは貴方様を置いて他には居りません」
力強い声ではっきりと諭す敬哀の姿に、劉禅は何ものにも代え難い優しさと愛情を感じて、心が安まる思いがした。

 しかし数年後、敬哀は病気の為に若くしてこの世を去った。劉禅の悲しみように誰もが涙し……それから二十数年の月日が流れた。

 供の者に従われながら宮中の長い廊下を重たい足取りで歩いていた劉禅は、何かが割れる音にふと面を上げた。その場に足を止めて驚いた。
「敬哀の苔ではないか!」
思わず階段を下りて供の者が叫ぶのも聞こえず走り出した。苔が植えられた植木鉢は、魏の兵士達に投げつけられ壊されているところだった。兵士達は壊すのを一旦止めて劉禅を冷ややかな目で見つめている。
「ああ……敬哀の植木鉢だ」
後を追いかけて来た供の者は悲しそうに話し始めた。
「……その鉢は、敬哀皇后が亡くなられた後も職人達の手で守られ今日まで大切にされて来たのです。しかし、蜀漢が滅亡した今となっては致し方なき事。さぁ、参りましょう。馬車が待っております」
「朕はなんという事をしてしまったのだろう。敬哀は民を大切にしろと言った。なのに、私は敬哀が居なくなり誰も信じられなくなって、もう何もかもが全てどうでもよくなってしまった。自分がやっている事を何も分かっていなかった」
項垂れて涙をこぼす姿を見て余りにも哀れに思ったのか、元皇帝の劉禅に敬意を払ってなのか、一人の兵士が前に平伏してまだ壊されていなかったひとつの小さな苔の植木鉢を差し出した。劉禅はその鉢を涙ながらに受取って頭を下げた。供の者に付き添われ大事そうに鉢を抱え劉禅が立ち去るのを、兵士達は何時までも黙って見つめていた。

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